被害者のパソコンを不正操作した真犯人>誤認逮捕した上「自白」させた警察>警察発表そのままを垂れ流したマスコミ、という順で罪科の軽重を問われるべきだが、>警察とマスコミを告発糾弾すべき市民代表でありながら何もしない国会議員、と連鎖は続くので、一過性の騒ぎとしてすぐに収まるでしょう。
以下は、>>言葉の綾掲示板 http://9101.teacup.com/chijin/bbs に、秩父市の文学愛好サークル「武甲文学」主宰のF氏から寄せられた投稿です。掲示板に掲載するにはかなり長文のため、ご本人の承諾を得てこちらへ転載しました。やや難解なところも見受けられますが、洞察に満ちた論考と判断しました。
ポエトリーカフェ武甲書店 埼玉県秩父市東町21-1
西武秩父線 西武秩父駅下車徒歩5分 秩父鉄道 御花畑駅下車徒歩1分
(転載はじまり)
霞ヶ関文学の高峰のひとつに数えられる司法文学(裁判所・検察・警察)に、またまた秀作が登場したことを寿ぎたい。陸山会事件の石川知裕供述をめぐる捜査報告書>に続く、今年度の刮目すべき収穫といえる。今回の創作ジャンルは上申書である。
左翼・右翼の政治犯や職業的犯罪者が自ら書く場合を除き、たいていは練達の司法文学者の熱心な指導によって、ようやく上申書が書き上げられる事例が多い。およそ世に出る文芸作品の多くは、執筆者と編集者の二人三脚の産物といわれるが、司法文学者が編集者として携わる場合、執筆者への叱咤激励はいささか度を越しているといえるほどのものらしい。
主人公の行動や心象のみならず、その内面の葛藤にまで遠慮会釈なく立ち入り、行為行動の論理的な意味づけから倫理的な着地まで、執筆者の考想を吟味するだけでなく、先取りして示唆することもあり、著者をして「自分が書いたとはとても思えない」と驚嘆させることも珍しくないといわれる。私も多少の経験を有するが、創作指導の困難と醍醐味をよく示す逸話といえる。
官許といえども、霞ヶ関文学、司法文学も大衆文芸の一派に変わりはない。記述に説得力をもたせる具体的な事実の開示とさりげない伏線の暗示、切迫した心理と葛藤の描写、読者の心をえぐる真実の発見と魂の叫び。そうしたドストエフスキー的に重厚な結構という司法文学の伝統を押さえつつ、けっして高踏高尚に構えず、現代の息吹を感じさせる通俗性が求められる。
司法文学の練達した書き手であり、長年の読者でもある判事は、あらかじめ決まっている「回心と贖罪」というテーマよりも、伝統を再起再生するトリビアルな事実が帯びる現代性こそ注視している。テーマと構成が決まっているために、モチーフにしか興味関心の対象が残されていないという側面もあるが、モチーフ(動機)が「告白」に強く結びつくと信じられている。
いうまでもなく、司法文学は告白文学の面貌を持つものだが、告白に至るまで主人公に起きるさまざまな事象が告白と行為の連関を跡づけ、物語の信憑性を裏づけるものと司法文学界においては広く認められている。また、この現代性に通じるさまざまな事象の理解と把持において、判事における読み手の特権性が付与される、という一般的な期待が込められている。
換言すれば、モチーフと告白の間、そこに散見するさまざまな事象における、関係と無関係の間、すなわち意味と無意味の間、それらが行為行動をして決定せしめる。いわばカミュ的な不条理を認めていることになろう。「今日、ママンが死んだ」ことを、これら相関の間において、どこにどのように回収するかは、ただただ判事の判断に委ねられる。しかし、それは恣意を意味しない。
ドストエフスキー的に信仰的な結構と、カミュ的に不条理な心象が混淆されたものが司法文学の構造とされるが、その躯体となるのは、水戸黄門の印籠的な権威性や大岡越前守のお白州的な権力性に他ならない。結構は司法に、行為と心理は主人公に、権威と権力性は判事に担保される。つまり、判事こそもっとも世俗的であり、通俗性を一身に担うといって過言ではない。
したがって、司法文学の使命は、読者である判事の権威権力性を承認しつつ、そのアイデンティティである通俗性を揺るがす挑戦であるという矛盾したものになる。この矛盾をすり抜ける狭隘な道筋を示すのが、警察の取調べ担当や検察の検事、あるいは弁護士といった司法文学者たちなのである。それはマンネリズムとは真逆の、きわめて困難な試みであり、真に創造的な営為といえよう。
文学はおろか、手紙さえ満足に書いたことがない「ド素人」が、司法文学がもたらす伝統的な物語カタルシスに奉仕しつつ、現代性を鮮やかに解体する作品を書き上げる。いかに監禁状態とはいえ、最長わずか2か月間の拘留期間という締め切りの内に、これを成し遂げる。その驚倒すべき創造性の秘密は、執筆者以上に主人公の固有性を確信する、彼ら司法文学者たちの努力と精進にある。
以下は、読売新聞に掲載された作品「上申書」の一部抜粋である。
「鬼殺銃蔵おにごろしじゅうぞう」という名前について、「鬼殺は日本酒の商品名。13が不吉な数字だからジュウゾウと読ませようとした」との説明や、「楽しそうな小学生を見て自分にない生き生きとしたものを感じ、困らせたかった」との動機が書かれている。また、襲撃予告先の小学校を選んだ理由について、インターネットで二つのキーワードで検索した結果、「一番上に出てきた」としている。
19歳の少年が日本酒名を熟知している意外性、池田小事件を踏まえた不条理だが痛切な動機性、検索結果の最上位を尊重する無垢性など、瞠目すべき多様な表現を駆使して、高い透明度を獲得していると記者も絶賛している。
編集の可視化という司法文学にとって致命的な危機がとりざたされるなか、それに抵抗するが如く、近年の司法文学はますます健在ぶりを示している。最後の輝きを発しているのではないかという懸念もあるが、司法映像などあり得ないという思いは、司法文学関係者のみならず、広く文学愛好者に共通することを保証して、拙稿を終わりたい。
F拝
(転載おわり)
以下は、>>言葉の綾掲示板 http://9101.teacup.com/chijin/bbs に、秩父市の文学愛好サークル「武甲文学」主宰のF氏から寄せられた投稿です。掲示板に掲載するにはかなり長文のため、ご本人の承諾を得てこちらへ転載しました。やや難解なところも見受けられますが、洞察に満ちた論考と判断しました。
ポエトリーカフェ武甲書店 埼玉県秩父市東町21-1
西武秩父線 西武秩父駅下車徒歩5分 秩父鉄道 御花畑駅下車徒歩1分
(転載はじまり)
霞ヶ関文学の高峰のひとつに数えられる司法文学(裁判所・検察・警察)に、またまた秀作が登場したことを寿ぎたい。陸山会事件の石川知裕供述をめぐる捜査報告書>に続く、今年度の刮目すべき収穫といえる。今回の創作ジャンルは上申書である。
左翼・右翼の政治犯や職業的犯罪者が自ら書く場合を除き、たいていは練達の司法文学者の熱心な指導によって、ようやく上申書が書き上げられる事例が多い。およそ世に出る文芸作品の多くは、執筆者と編集者の二人三脚の産物といわれるが、司法文学者が編集者として携わる場合、執筆者への叱咤激励はいささか度を越しているといえるほどのものらしい。
主人公の行動や心象のみならず、その内面の葛藤にまで遠慮会釈なく立ち入り、行為行動の論理的な意味づけから倫理的な着地まで、執筆者の考想を吟味するだけでなく、先取りして示唆することもあり、著者をして「自分が書いたとはとても思えない」と驚嘆させることも珍しくないといわれる。私も多少の経験を有するが、創作指導の困難と醍醐味をよく示す逸話といえる。
官許といえども、霞ヶ関文学、司法文学も大衆文芸の一派に変わりはない。記述に説得力をもたせる具体的な事実の開示とさりげない伏線の暗示、切迫した心理と葛藤の描写、読者の心をえぐる真実の発見と魂の叫び。そうしたドストエフスキー的に重厚な結構という司法文学の伝統を押さえつつ、けっして高踏高尚に構えず、現代の息吹を感じさせる通俗性が求められる。
司法文学の練達した書き手であり、長年の読者でもある判事は、あらかじめ決まっている「回心と贖罪」というテーマよりも、伝統を再起再生するトリビアルな事実が帯びる現代性こそ注視している。テーマと構成が決まっているために、モチーフにしか興味関心の対象が残されていないという側面もあるが、モチーフ(動機)が「告白」に強く結びつくと信じられている。
いうまでもなく、司法文学は告白文学の面貌を持つものだが、告白に至るまで主人公に起きるさまざまな事象が告白と行為の連関を跡づけ、物語の信憑性を裏づけるものと司法文学界においては広く認められている。また、この現代性に通じるさまざまな事象の理解と把持において、判事における読み手の特権性が付与される、という一般的な期待が込められている。
換言すれば、モチーフと告白の間、そこに散見するさまざまな事象における、関係と無関係の間、すなわち意味と無意味の間、それらが行為行動をして決定せしめる。いわばカミュ的な不条理を認めていることになろう。「今日、ママンが死んだ」ことを、これら相関の間において、どこにどのように回収するかは、ただただ判事の判断に委ねられる。しかし、それは恣意を意味しない。
ドストエフスキー的に信仰的な結構と、カミュ的に不条理な心象が混淆されたものが司法文学の構造とされるが、その躯体となるのは、水戸黄門の印籠的な権威性や大岡越前守のお白州的な権力性に他ならない。結構は司法に、行為と心理は主人公に、権威と権力性は判事に担保される。つまり、判事こそもっとも世俗的であり、通俗性を一身に担うといって過言ではない。
したがって、司法文学の使命は、読者である判事の権威権力性を承認しつつ、そのアイデンティティである通俗性を揺るがす挑戦であるという矛盾したものになる。この矛盾をすり抜ける狭隘な道筋を示すのが、警察の取調べ担当や検察の検事、あるいは弁護士といった司法文学者たちなのである。それはマンネリズムとは真逆の、きわめて困難な試みであり、真に創造的な営為といえよう。
文学はおろか、手紙さえ満足に書いたことがない「ド素人」が、司法文学がもたらす伝統的な物語カタルシスに奉仕しつつ、現代性を鮮やかに解体する作品を書き上げる。いかに監禁状態とはいえ、最長わずか2か月間の拘留期間という締め切りの内に、これを成し遂げる。その驚倒すべき創造性の秘密は、執筆者以上に主人公の固有性を確信する、彼ら司法文学者たちの努力と精進にある。
以下は、読売新聞に掲載された作品「上申書」の一部抜粋である。
「鬼殺銃蔵おにごろしじゅうぞう」という名前について、「鬼殺は日本酒の商品名。13が不吉な数字だからジュウゾウと読ませようとした」との説明や、「楽しそうな小学生を見て自分にない生き生きとしたものを感じ、困らせたかった」との動機が書かれている。また、襲撃予告先の小学校を選んだ理由について、インターネットで二つのキーワードで検索した結果、「一番上に出てきた」としている。
19歳の少年が日本酒名を熟知している意外性、池田小事件を踏まえた不条理だが痛切な動機性、検索結果の最上位を尊重する無垢性など、瞠目すべき多様な表現を駆使して、高い透明度を獲得していると記者も絶賛している。
編集の可視化という司法文学にとって致命的な危機がとりざたされるなか、それに抵抗するが如く、近年の司法文学はますます健在ぶりを示している。最後の輝きを発しているのではないかという懸念もあるが、司法映像などあり得ないという思いは、司法文学関係者のみならず、広く文学愛好者に共通することを保証して、拙稿を終わりたい。
F拝
(転載おわり)