コタツ評論

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スピードラーニングTPP

2013-02-25 20:13:00 | 政治

蒲田や東大阪の工員のスナップ写真ではない。堀江謙一青年だ。

やがて日本中の街角で、「てっぺっぺっ!」と吐き捨てるように云う日が、必ずくるだろう。

安倍首相、来月上旬にも正式表明=TPP参加、自民役員会が一任 時事通信 2月26日(火)0時31分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130226-00000003-jij-pol

TPP "Trans-Pacific Strategic Economic Partnership" 、あるいは、"Trans-Pacific Partnership" の頭文字である。新聞など活字メディアでは、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)と訳されている。だが、環太平洋の訳語なら、ふつう "Pan Pacific" が使われる。環太平洋産業連関分析学会(Pan Pacific Association of Input-Output Studies)があるように。

環太平洋とは、字義通り、太平洋をとりまく国や地域を対象とする。アメリカをはじめ、オーストラリア、中国、ベトナム、フィリッピン、シンガポール、そして日本などだ。

環太平洋には他に、"Rim of the Pacific" という用例もある。わたしたちは、 "Rimpac" (リムパック)と略称する "Rim of the Pacific Exercise"環太平洋合同演習)を知っている。

アメリカ海軍がハワイ沖で実施する、カナダやオーストラリア、ニュージーランド海軍などが参加する合同軍事演習のことで、日本の海上自衛隊も1980年から加わり、憲法9条違反ではないかと論議を呼んだ。

では、 "Trans-Pacific" も同様に環太平洋を指すのだろうか。ネット辞書を引いてみると、<太平洋の向こう側><太平洋横断>という意味とある。"Pan"(鍋)や"Rim"(輪)に対して、"Trans"(横切る、貫く)だから、「環」とは明らかに違う。

太平洋の向こう側や太平洋横断といえば、日本と日本人にとって、どの国を指さすかは明らかである。まず、「太平洋戦争」を想起するのはもちろんのことだが、堀江謙一の「太平洋ひとりぼっち」を連想する人もいるだろう。

堀江謙一が小型ヨット「マーメイド号」に乗って、西宮-サンフランシスコ間の太平洋単独横断航海に成功した冒険である。堀江謙一にとって、世界とは、太平洋のこちら側の日本と太平洋の向こう側のアメリカだけだった。

だが、それは1962年当時、大多数の日本人が共有した世界認識だった。問題はそれが、50年を経た現在も続いていることだろう。

ちなみに、 "Pan" "Rim" "Trans" などが掛かる、Pacific(太平洋)に関する最近のギャグ(Gag)がある。小島よしおの「そんなのカンケーねえ」連呼を終わらせる「おっぱっぴー」のことだ。「なんだ、そりゃ?」と尋ねられたとき、小島よしおは(そんなことも知らないのか!)とばかりに憮然と、「オーシャン・パシフィック・ピース(太平洋に平和を)ですよ」と云うのだ。

"Trans-Pacific" を検索してみると、Transpacific Groupという会社がヒットした。その会社説明には、<インポートドレス&ブライダルグッズの輸入代理店『トランスパシフィック・グループ』は アメリカ・フランス・イタリアより最新でザインのブライダル関連商品を輸入販売しており ます総合商社です>とある。

"Trans-Pacific" は環太平洋を示さない。太平洋を横断して貫く日米間、いや米日間の関係性を表す言葉だ。アメリカが日本へヒト・モノ・カネの輸出を拡大する、日本にとっては輸入拡大を迫られる、一方通行で非対称を示す記号だ。それ以上、それ以外の目的は考えられない。

というわけで、 "Trans-Pacific Partnership" を訳するなら、環太平洋戦略的経済連携協定ではなく、太平洋横断米国企業戦略的経済協定が適切である。英語発音は、もちろん、「てっぺっぺっ!」。アメリカ人が、「ティピィピィ」と発音したら、すかさず「ちっちっちっ」と人差し指を振ってネィティブな発音をするよう訂正を求めよう。

(敬称略)

桐島、部活やめるってよ

2013-02-25 00:58:00 | レンタルDVD映画


桐島、部活やめるってよ(公式サイト)
http://www.kirishima-movie.com/index.html
yahoo映画紹介
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tyca/id342041/

「アベンジャーズ」の日本公開キャッチフレーズが論議を呼んだことがある。「日本よ、これが映画だ!」と高飛車だったからだ。たしかに、「アベンジャーズ」は傑作だった。だが、「桐島、部活やめるってよ」なら、胸をはってこう云える。「世界よ、これが日本映画だ!」と。ついでに、「ハリウッドよ、さすがにこれはリメイクできまい」ともつけくわえておこうか。まぎれもない傑作。ときめきながら場面に見入るなんて、ずいぶん久しぶりの経験だ。観るときはひとりに限る。惚けた顔になっていること間違いないからだ。

部活映画である。ただし、「帰宅部」もある。たぶん、この学校は都市部の公立高校だ。運動部の代表はバレーボール部である。キャプテンで運動部全体のスター選手のような桐島がブカツをやめることが発端になる。文化部の代表は映画部だ。グラウンドや体育館を占有する運動部をよそに学校の片隅でしこしこ8mm映写機を回して、ゾンビ映画を撮っているオタクたちだ。吹奏楽部も出てくる。部長は帰宅部の一人に思いを寄せ、彼らが桐島を待ちながらバスケットに興じる様子を見下ろせる、校舎の屋上でいつもサックスの練習をしている。映画部の監督は、クラスメートの女子バトミントン部員に惹かれるが、彼女は帰宅部のちゃらい男子との交際を隠している。

つまり、青春映画である。ただし、これまでの青春映画を否定する青春映画だ。たとえば、加山雄三の若大将シリーズを観たことはあるだろうか。スポーツが得意で、友だちが多く、キャンパスでいちばんの美女を恋人にして、ライバルとの競争に勝ち抜いていく、そんな青春映画を観たことはあるだろう。主人公が教師だろうと不良だろうとさえないオタクだろうと、このパターンに変わりはない。正確にいえば青春スター映画である。しかし、「桐島、部活やめるってよ」とみんなが噂している当の桐島は不在のまま。加山雄三は現れず、青春スターは出てこない。加山雄三の若大将には、田中邦衛の青大将という引き立て役がいたように、重要だが脇役やちょい役、声援を送るだけのその他大勢がそこにいるだけ。

だから、群像劇である。ただし、「仁義なき戦い」のように広島暴力団の興亡といった骨太の戦後史に血肉の彩りをあたえるための群像ではない。「桐島、部活やめるってよ」と噂する人々が桐島の記憶や人となりを語りだすわけでもなく、ただ、学校に出てこない、電話に出ない、メールを返さない、とやきもきするだけ。筋らしい筋もない。同じ高校に通い桐島を知っていることが共通しているだけで、彼らは何も共有していない。映画部などは、「桐島、桐島って、お前らいったい何なんだ!」と怒鳴るくらい、桐島さえ関係していない。最初から最後までバラバラに思い考え、行き当たりばったりに動く。これまでの集団映画や群像劇とは違い、誰にも何ものにも群がることがない。

ごちゃごちゃするばかりでわかりにくいかもしれない。すまない。しかし、この映画はとてもわかりやすい映画だ。この高校生たちのなかに、きっとあなたがいるからだ。この映画の主人公はわたしだ。そう思わせてくれる。そして、他の人々もそれぞれが主人公なのだ。そうも感じさせてくれる。そう、桐島なんて、最初からいないし、これからも出てこない。この学校だけでもたくさんの男子や女子がいるが、声をかけ、話を交わす人はわずかだ。身体がふれあい、ふれあわず、心がかよい、かよわず、彼らは彼らの世界で生きている。わたしたちがこちらの世界で生きているように。わたし以外のわたしを感じさせてくれる、そんな経験をしたといえる奇跡的な映画である。こんな映画は日本でしかつくれないだろう。ガラパゴス万歳!