コタツ評論

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不覚にもパンツに驚いた

2014-02-12 23:08:00 | レンタルDVD映画
「愛か罪か」とか「愛の絆」とか、宣伝惹句は愛に寄り切ろうとしているが、「さよなら渓谷」は復習の映画だった。もとい、復習ではなく復讐である。ま、どちらでもかまわないのだが。

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というのは、「嘆きのピエタ」と「悪いやつら」と韓国の復讐映画を続けて観たところに、この「さよなら渓谷」でもまた、レイプされた女性の屈折した復讐心がモチーフに描かれていたおかげで、はからずも韓国復讐映画の復習になったからだ。

いや、韓国映画では、復讐はモチーフというより直截なテーマだった。とくに、「嘆きのピエタ」は、借金取りに自殺に追い込まれた息子の仇を母親がうつため、借金取りの生き別れた母親になりすます残酷寓話的な復讐譚だった。「悪いやつら」は、コネと汚職の韓国社会に、血縁をテコに贈賄を重ねて「悪人」ながら上昇し、うだつの上がらなかった人生と社会に復讐する元税関職員のピカレスクロマンだ。

一方、「さよなら渓谷」では、復讐はモチーフであり、赦しがテーマのはずだ。観客は、いつどのようにして、レイプされたかなこ(真木よう子)はレイプした尾崎(大西信満)を赦すのか。それを注視するように、この映画は作られている。結局、赦さないという赦しをかなこに与えられた尾崎はそれを受け入れ、行方を告げずに出ていったかなこを、「どこにいようと探し出す」と週刊誌記者・渡辺(大森南朋)に決意を告げて終わる。

もちろん、先にふれた韓国映画に赦しがないわけではない。ただ、「ピエタ」の場合、そのタイトル通り、赦しは神話伝説レベル。人類すべての救済がなければ、一人の赦しもないほどだ。「悪い」では、法治とすら癒着する血縁社会に復讐したつもりの「悪人」もまた、ほんとうに心が通い合った血族から復讐を受けるという結末に赦しが待っていた。くらべて、「さよなら渓谷」では、復讐も贖罪もただ二人の男女のみに終始する。

誤解をおそれずにいえば、韓国の復讐映画は、韓国社会の後進性を入り口にしている。「ピエタ」の場合、映画表現としても、後進性を露呈していると思える。よくいえば、シンプルな寓話なのだが、わるくいえば稚拙で洗練を欠く。しかし、作品としてはプリミティブな力強さが横溢している。傑作という評も頷けるが、宗教的な西欧への受け狙いがうかがえ、そこに映画パッケージとしての後進性をみてしまう。

「悪い」は、韓国社会の後進性そのものがモチーフでありテーマだ。が、自らの社会の後進性を指摘できるのは、成熟の証でもある。反日さえも、後進性のひとつに数え上げた場面があった。後に「悪人」となるきっかけは、税関職員のときに、密輸された覚醒剤を横取りしたことからだった。怖じ気づく同僚を主人公(チェ・ミンシク)はヤクザに売って金にしようとかき口説く。「日本に覚醒剤売って何が悪い! 日本の植民地時代が何年続いたか知っているか? 36年だ、36年だぞ!」と云うのだ。

そんな人間の業や社会の不条理ではなく、どこまでもいつまでも男女の対幻想に拠る「さよなら渓谷」の地平は、韓国映画からはみることができないものだ。もちろん、それを日本の先進性というつもりは毛頭ない。ただ、日本的な成熟のひとつの達成だと思うのだ。

吉田修一の原作を読んでいないが、たぶん、「さよなら渓谷」の主人公は、かなこや尾崎ではなく、渡辺だと思う。映画においても、主演は大森南朋だと思う。予告編や映画を観た人の多くは、即座に否定するだろうが。

シャーロック・ホームズでもあるまいし、そんなにたちどころに何かを見抜けるものか、はじめて会った人間にそうペラペラ喋る奴がいるものか。ジャーナリストや記者、あるいは刑事でもいいが、彼らが映画やドラマに登場する度に、ありえないご都合主義だらけに苦笑を抑えられない。

その彼らがたいていは、物語の筋や事件の動機などを観客に説明したり示唆する「狂言まわし」という役どころなので、興ざめすること倍増となる。TVの2時間ドラマなら、そんな記者や刑事が登場すれば、べつにナレーション役も兼ねているのだなと諦めるが、映画でそれをやられちゃかなわない。

かつて社会人ラグビー選手として鳴らしながら、怪我をして挫折した週刊誌記者・渡辺(大森南朋)は、そんな扱いではない。同僚の若く優秀な女性記者(鈴木杏)に原稿を押しつけたり、チェックを頼んだり、要領はわるくないが、上司に「ちゃんと仕事をやれよ!」と怒鳴られたりする。ごくふつうに無能で怠け者なのだ。

おまけに、不仲の妻に苛立つ毎日、セックスを拒まれて怒鳴り、深夜、洗面所の鏡に映した、たるんだ身体に愕然としたりしている。元ラグビー選手どころか、小学校の運動会の父兄パン食い競争さえ出場が危ぶまれる、だらしなく緩んだ裸体がさらされたとき、主人公であり主演男優はこの渡辺・大森南朋だと直感した。

ほとんど寡黙を通す尾崎に代わって、いや尾崎こそが渡辺の投影なのだと了解したわけだ。映画の身体性の観点からは、哀しく華奢なかなこ・真木よう子の裸体以外には、男の裸体は渡辺・大森南朋だけだからだ。おいおい、かなこと尾崎が睦み合う場面で、何度も大西信満のたくましい裸体が登場したよという声も出るだろう。

いや、尾崎・大西信満はかなこに追いすがり、就いて歩き、かなこを前に立ち尽くし、かなこを組み敷く身体であり、奥多摩の渓谷を足許を見ることなく歩ける強健な身体だ。けっして哀しくはない身体だ。

裸体といえば、真木よう子のパンツが現れたときは、ちょっと驚いた。奥多摩渓谷が近い安アパートの部屋で、かなこと尾崎がからみあう場面だった。裸の上半身から下にカメラが下がると、ダイソーに100円で売っているような白い木綿パンツに覆われた尻が大写しにされた。

かなこが上にかぶさり、かなこの脚の間に尾崎のすね毛の足が割って入っている。かなこの白パンツから太もも、3脚がもどかしげに動く。こんな撮り方ははじめて観た。裸の男女のからみなんて、手足がもう一本でも増えないかぎり、どう見せられても食傷気味と思っていたが、まだまだ工夫のしようがあるものだと感心した。

美しい場面もあった。たとえば、かなこが椅子に座って窓辺を眺めている。射しこむ西日に光る埃は、春の野に舞うキンポウゲに似て、浮かんで泳ぐように漂う。穏やかで安らぎに満ちた美しい時間を切り取っていた。すぐ次の場面で、かなこは受話器を取って、尾崎を警察に通報するのだが。

政治性がまったくないわけではない。かなこと再会する前、野球部を退部して大学も中退した尾崎が先輩に拾われて証券マンとなり、かつての大学の後輩を接待している場面。裕福な家の後輩は株を2000万円買ってくれたのだった。はべらせたクラブホステスたちに後輩(新井浩文)は聞こえよがしに話す。

「あの人さあ、昔、女の子をレイプしちゃってさあ、俺も巻き込まれてひどい目にあったんだよお」と酒の肴にして笑うのだ。「どこの国にも慰安婦はいた。日本だけが悪いわけじゃない」と云った橋下徹や籾井勝人に、このレイプ共犯の後輩はどこか重ならないだろうか。

「衝撃のラスト」がある。衝撃はなかったが、尾崎・大西信満がなぜ沈黙を守ってきたか、それが明かされる。ライティングが決まった見事なショットだった。

俳優はみな好演。真木よう子はすばらしい表現力だった。代表作を持つ幸せな女優はめったにいない。大西信満ははじめて知ったが、沈黙に耐える姿勢が強くて、弱々しい真木よう子をより際立たせていた。助演男優賞ものだ。大森南朋、いうことなし。鈴木杏もいい。鶴田真由もちょい役ながら、はまっていた。ほかには、刑事役の木下ほうかが絶品。

長々とおつきあい下さいましてありがとうございました。最後に、エンディングテーマ曲「幸先坂」を。


作詞作曲は椎名林檎、雰囲気のある声ですね。

(敬称略)