コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

うう、暗いな

2014-04-09 23:24:00 | ノンジャンル
親露のヤヌコビッチ独裁政権を倒したウクライナの民主主義のうさんくささと。

ウクライナ取材を終えて 米国のお先棒担ぐ日本マスコミ
http://tanakaryusaku.jp/2014/03/0009051

クリミアだけでなくウクライナ東部の分離独立を虎視眈々と狙うロシアと。

ウクライナ混乱、「ロシア工作員が関与」 米国務長官
http://www.asahi.com/articles/ASG492QB1G49UHBI009.html?iref=comtop_list_int_n02

そんなでたらめなウクライナに、ほとんど無関係な日本が1500億円もポンと出して、さらに集団的自衛権行使となれば、出かけていって「ウクライナ軍」や「ロシア軍」と戦闘しなければならないのか。

しかし、本日の日本は、大阪で開かれた小保方記者会見一色。ウクライナと同じく、一般国民はほとんどSTAP細胞なんたらと関係ないのだから、どうだっていいと思うのだが。

業務連絡:夜半とは、何時頃か?」にご丁寧な拍手コメントを下さった方。ありがとうございます。「不一」はかっこいいですね(ブログ名に変えようかしらん)。気が向いたら、またお越し下さい。

では、大阪とオブやんつながりで。

月の法善寺横丁 藤島 桓夫(愛称 オブやん)


(敬称略)

横道にそれながら世之介を語る その三

2014-04-09 02:10:00 | レンタルDVD映画



横道世之介は大学でサークルに入るのね、サンバサークル。ブラジルのカーニバルのサンバ。町起こしイベントとか、商店街の売り出しとか、そういうところへ参加して踊るのが活動。就職面接ではとても売り込めない、ひまつぶしサークルだよね。でも、バブルの頃で就職はめっぽう楽だったから、学生ものんびりしてたんだね。いちおう、まじめにサンバの練習したり衣装作ったりする。法政ってのはね、昔は学生運動が盛んで、いまでも残っている珍しい大学でね。そういう描写はまったく出てこないんだけどね。それが撮影に協力した大学の狙いかもしれないな。

与謝野祥子(吉高由里子)は世之介たちと同じ法政大学の学生じゃないな。成金のお嬢様で運転手付きの車でデート現場に乗り付け、「世之介さまあ、ごきげんよう~」って手を振りながら駆け寄ってくるの。都内のお嬢さん女子大だろうね。世之介の友だちの倉持の彼女の友だちが祥子。倉持の彼女って、「彼女、ノリ付けてんの?」と尋ねて倉持が泣かした唯ね。その最初のWデートで、祥子はすぐに世之介を気に入ってしまう。お嬢さん女子大より法政大学の方が普通の大学だし、世之介も普通の大学生だからさ、お嬢様育ちの祥子は普通が嬉しかったんだろうな。

だけど、世之介の方は素っ頓狂な祥子より、色っぽい大人の千春(伊藤歩)が気になってしかたがない。祥子はさ、「木綿のハンカチーフ」の太田裕美みたいなさ、フリフリフリルの裾の長いスカートなのに、千春はセクシーなタイトスカートにピンヒールだもの。そりゃあ、無理もないさ。でもね、この祥子(吉高由里子)が出てきてから、俄然、映画にドライブがかかる。吉高由里子って意外に小柄だったけど、いいねえ。めじからっていうの? 俺たちは眼力(がんりき)や眼光(がんこう)っていうけど、ちょいサディスティックな強い視線が可愛さを引き立たせている。

祥子や千春のほかには、大学では倉持一平(池松壮亮)や次に友だちになった加藤雄介(綾野剛)などが主な登場人物だけど、彼らはとくに世之介が気に入ってというわけでもない。「親友だあ」というベタな感じじゃない。なんとなく、いっしょにいたり、部屋に泊まったり、飯食ったりしている。そういうんだよね、友だちってさ。でもね、それから12年後、倉持も加藤も、世之介ってやつがいたよね、いたんだよって嬉しそうに笑いながら思い出すんだ。

加藤はね、今の友だちというか、恋人に、「世之介を知っているってだけで、俺はあんたより、ずいぶん得している気がする」とまでいうんだ。この加藤の意外な顔を世之介が知る場面は、普通論にはうってつけなんだが、君にこの映画を観てほしいからさ、くわしくはいえないな。

成金の土建会社社長の父親(國村隼)に、「どんな彼氏なんだ?」と問われて、祥子は、「世之介様は見込みがあるんですう、今まで会ったどの男よりもあるんですう」と口を尖らせて反発するのね。「見込みがある」ってのは、父親の口ぶりを真似て、父親の価値観に沿って祥子が持ち出した言葉なんだが、じつは父親も、そんな出世とか金とか有名になるとか、そういことだけを「見込み」といってるんじゃないんだ。もちろんそうしたことも重視しているんだが、それ以上に大事なことは何かってことはわかっている。

もしかしたら、義理とはいえ息子になるかもしれない娘の彼氏だからね。父親の「見込み」は、たぶん、祥子の評価とそれほど変わりない。でも、お父様と世之介様は違うって、だから、お父様と私も違うのって、それが祥子の云いたいこと。たしかに、世之介が社長になったり、政治家になったり、学者になったり、エライ人になるなんて思えないもの。そうはならないし、それでいいんだって、祥子は思ってる。この場面は、祥子が意外な進路を選ぶ伏線にもなっているんだな。じゃ、祥子がいう「見込み」って何? 普通すぎるって何だろう?

父娘どちらも、世之介を買っているんだが、それは世間的な評価の上でじゃない。つきあって得するか、自慢の友だちかといえば、世之介はそうじゃない。でも、いいやつなんだ。信じられる男なんだ。裏も表もないんだ。いつも朗らかに笑っていて、素直にびっくりして、ほんとうに心配して、腰軽くどこでも行くやつなんだ。思ったこと、感じたこと、考えたことが、その次の行動で手にとるようにわかる。思い出すとつい笑いが込み上げてくる男なんだ。それは「いいやつ」とか「いい人」としかいいようがないよな。とすると、いいやつになる「見込み」ってことになるわけだ。ちょっと変だよな。

じゃ、誰もが「いいやつ」と認めるオーラとか影響力を世之介が備えていて、というなら、それは普通の人間じゃないよな。そうじゃなくて、世之介もまた、倉持や加藤や祥子や千春から影響を受けて少しずつ変わっていくんだな。たとえば、世之介の故郷の長崎の港町で、夜の海岸で祥子といい雰囲気になる。ところが、ベトナムか中国か、難民のボートが漂着して、あたりは大騒ぎになる。世之介は、祥子の手を引いて逃げようとする。当然だよな、まず、自分と彼女を護ろうとするのは。でも、祥子は泣いてとどまろうとし、世之介を引き留めようとする。

この映画に主人公はいないんだな。世之介を中心に映画は進んでいくけど、世之介が主人公というわけじゃない。祥子たちも主な登場人物じゃない。倉持や加藤や祥子や千春は、俺や私なんだな。そう思わせてくれる映画はとても上出来なんだ。主人公は、ヒーローは、ヒロインは、という映画は不出来と限るわけじゃないが、残念ながら大人の映画じゃない。いつかは卒業したほうがいい。

最後にね、世之介の事故が明かされる。最初、あざといなって思った。小説が原作だから、あの設定を変えるわけにはいかなかったんだろうが、なんだよそういうことかって、つじつま合わせに思えて、ちょっとがっかりした。でもね、それも世之介にとって横道なんだろうなって思い直したね。というのは、倉持や唯、加藤や祥子も、横道を歩いたことがわかったからさ。ほんのちょっと脇の道へ、ちょっと狭い、まっすぐではない、曲がっているところもあってその先が見通せない、そんな道をみんな歩いていた。

普通なんてないってことなんだな。でも、俺たちは普通だし、そう思っているし、そう思っていることはたしかなことだよな。でも、気がつけば横道を歩いている。でも、俺たちは普通だしと、ぐるぐるまわりだけど、それは誰も似たようなものさ、というのとは全然違う。俺とか私を離れてみれば、俺たちとか私たちと思ってみれば、「普通すぎて可笑しい」と祥子が微笑む普通が見えてくる気がするんだよな。カメラワークでいうと、俯瞰の眼だな。時間の風に頬をなぶられながら、道のない地面をうねうね歩いている、俺や俺たちを空から見ている。死者の眼でもある。そういう映画だな。観たくなった? なあ、頼むから観てくれよ。ダメ? やっぱり、「アナと雪の女王」を観たい?

(敬称略)