一言で説明できるところが、情けない。
福田次官や米山知事のスキャンダルは、彼らの発達不良のためです。換言すれば、世間知らず。小学校や中学から出直せというに過ぎません。
ハーヴェイ・ワインスタインなど、欧米の me too 運動でやり玉に挙げられている男たちとは質実をまったく異にしています。彼らはハラスメントや差別主義者と非難されるだけの適格性を備えています。間違った大人になりましたが、彼らは大人です。
次官や知事はかつても今もこれからも、どうして自分が非難されるのか本当にはわからないでしょう。会社や役所のセクハラ研修程度のことはじゅうぶん以上に承知しているのですが、知識・情報にとどまり、自分とは無関係だと思い込んでいるのです。
いくら、「あなたの言動は云々」と詰っても、「今はそういう時代なのかなあ」という感想を引き出すくらいが関の山。宿題を忘れてしまった小学生のように、適応できなかった自分を反省するにとどまるのです。彼らは間違って大人とされている、子どもだからです。
日本のエリートに大なり小なり彼らのような発達不良が見受けられるのは、もちろん、初中等教育や家庭教育など環境の問題ですが、それ以上に「自己責任」でもあります。そこいらのあんちゃんやおっさんは同様なセクハラや差別をしたとしても、少なくとも内省にいたる契機を自らの内に持っています。
わるい友だちやいかれたねえちゃんたちとつきあい、街場や通りから知恵や振るまいを獲得するだけでなく、悪徳にも直面してきているからです。不良を持ち上げるつもりはありません。
社会や世間をルールやマナーから学ぶと同時に、その外にも世界や個人がいてモラルもある、また、あり得ることを映画や小説や漫画やアニメなどから学ぶ、大多数の非不良な子ども時代もあるわけです。
彼らは間違った大人になったとしても更生の可能性は残されています。すでに知っていることに気づくだけですから。
いうまでもなく、誰しも「間違った大人」と「間違って大人になった」部分を併せ持っています。問題は、「間違った大人」になった「間違った子ども」時代に立ち戻って考えられるかどうかです。
ようするに「子ども時代」があったかどうかです。「間違った大人」だと自覚しようにも、「間違った子ども」時代に思い当たらず、どこまでもフラットな煩悩なき正しい子どもモドキ、あるいは夢も希望もない合目的的な大人モドキ、そんな子ども時代しか思い浮かばないとすれば、どうでしょうか。
つまり、彼らは寄る辺ない人間なのです。どれほど社会階層を上がったとしても、子ども時代に思春期に、青年期に、自らの人間形成の場所(フィールド・原っぱ・遊び場)に立ち戻ることができません。
子どものまま成長や成熟していないだけでなく、子どもがそうであるように、そもそも成長や成熟とは何かがまったくわからないまま、全能感を抱いたまま年齢を重ねたのです。成長や成熟とは、知識や情報から得られるものではなく、失敗や挫折、敗北感などの経験によって確認され駆動するものです。
周囲を環境そのものを疑うことなく、ただ環境に適応することで得てきた全能感を成長や成熟と思ってきたのです。今回、それが誤解と気づかされてしまった、しかしあくまでも本人は気づいていないのは、気づくという言葉のほんとうに新鮮な驚きの経験もまたないからです。
ただし、心の奥底では自らのそうした欠落にじつは気づいています。だからこそ、ええ年こいてただの色ボケを恋愛と錯覚したりするのです。セクハラや女性差別といわれて心外なのは、口説き文句だと思っているのです。
恋愛を願望しながら、買春やセクハラという適応能力でしか対応できないのは不器用なエリートだからではなく、「~してあげるから、~して」という話法しか持たない子どもだからです。じつにこういう御仁こそ、恋愛にもっとも縁遠い、きわめて不幸にして不運な境遇なのです。
「僕は20歳だった。それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない」(ポール・ニザン「アデン、アラビア」)の感想を求めたら、「うん、たしかに。灰色の受験生活でした」と遠い目をするかもしれません。「でも、勉強ばかりではなく、友だちと遊んだり、けっこう楽しんでもいましたよ」と続けるかもしれません。そこから私たちがわかることは、誰でも遠い目くらいはするものだな、に過ぎないのです。
一言でいえたことを百言費やしました。すみません。
(止め)
福田次官や米山知事のスキャンダルは、彼らの発達不良のためです。換言すれば、世間知らず。小学校や中学から出直せというに過ぎません。
ハーヴェイ・ワインスタインなど、欧米の me too 運動でやり玉に挙げられている男たちとは質実をまったく異にしています。彼らはハラスメントや差別主義者と非難されるだけの適格性を備えています。間違った大人になりましたが、彼らは大人です。
次官や知事はかつても今もこれからも、どうして自分が非難されるのか本当にはわからないでしょう。会社や役所のセクハラ研修程度のことはじゅうぶん以上に承知しているのですが、知識・情報にとどまり、自分とは無関係だと思い込んでいるのです。
いくら、「あなたの言動は云々」と詰っても、「今はそういう時代なのかなあ」という感想を引き出すくらいが関の山。宿題を忘れてしまった小学生のように、適応できなかった自分を反省するにとどまるのです。彼らは間違って大人とされている、子どもだからです。
日本のエリートに大なり小なり彼らのような発達不良が見受けられるのは、もちろん、初中等教育や家庭教育など環境の問題ですが、それ以上に「自己責任」でもあります。そこいらのあんちゃんやおっさんは同様なセクハラや差別をしたとしても、少なくとも内省にいたる契機を自らの内に持っています。
わるい友だちやいかれたねえちゃんたちとつきあい、街場や通りから知恵や振るまいを獲得するだけでなく、悪徳にも直面してきているからです。不良を持ち上げるつもりはありません。
社会や世間をルールやマナーから学ぶと同時に、その外にも世界や個人がいてモラルもある、また、あり得ることを映画や小説や漫画やアニメなどから学ぶ、大多数の非不良な子ども時代もあるわけです。
彼らは間違った大人になったとしても更生の可能性は残されています。すでに知っていることに気づくだけですから。
いうまでもなく、誰しも「間違った大人」と「間違って大人になった」部分を併せ持っています。問題は、「間違った大人」になった「間違った子ども」時代に立ち戻って考えられるかどうかです。
ようするに「子ども時代」があったかどうかです。「間違った大人」だと自覚しようにも、「間違った子ども」時代に思い当たらず、どこまでもフラットな煩悩なき正しい子どもモドキ、あるいは夢も希望もない合目的的な大人モドキ、そんな子ども時代しか思い浮かばないとすれば、どうでしょうか。
つまり、彼らは寄る辺ない人間なのです。どれほど社会階層を上がったとしても、子ども時代に思春期に、青年期に、自らの人間形成の場所(フィールド・原っぱ・遊び場)に立ち戻ることができません。
子どものまま成長や成熟していないだけでなく、子どもがそうであるように、そもそも成長や成熟とは何かがまったくわからないまま、全能感を抱いたまま年齢を重ねたのです。成長や成熟とは、知識や情報から得られるものではなく、失敗や挫折、敗北感などの経験によって確認され駆動するものです。
周囲を環境そのものを疑うことなく、ただ環境に適応することで得てきた全能感を成長や成熟と思ってきたのです。今回、それが誤解と気づかされてしまった、しかしあくまでも本人は気づいていないのは、気づくという言葉のほんとうに新鮮な驚きの経験もまたないからです。
ただし、心の奥底では自らのそうした欠落にじつは気づいています。だからこそ、ええ年こいてただの色ボケを恋愛と錯覚したりするのです。セクハラや女性差別といわれて心外なのは、口説き文句だと思っているのです。
恋愛を願望しながら、買春やセクハラという適応能力でしか対応できないのは不器用なエリートだからではなく、「~してあげるから、~して」という話法しか持たない子どもだからです。じつにこういう御仁こそ、恋愛にもっとも縁遠い、きわめて不幸にして不運な境遇なのです。
「僕は20歳だった。それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない」(ポール・ニザン「アデン、アラビア」)の感想を求めたら、「うん、たしかに。灰色の受験生活でした」と遠い目をするかもしれません。「でも、勉強ばかりではなく、友だちと遊んだり、けっこう楽しんでもいましたよ」と続けるかもしれません。そこから私たちがわかることは、誰でも遠い目くらいはするものだな、に過ぎないのです。
一言でいえたことを百言費やしました。すみません。
(止め)