「行間を読む」という言葉があります。何も書いていない行間の空白に、推敲して削除しただろう描写や説明が浮かび上がってくるような文章があります。あるいは、もっと暗示的に行間から想像力を立ち上がらせようとする文章もあります。
言い換えれば、「行間を埋める」書き手と「行間を読める」読み手との共感の空間を行間と呼ぶのです。
ただし、上記は文学や思想分野の文章にほぼ当てはまるもので、報道記事などではべつの「行間を読む」読み方が求められます。論理的には、どういう考えであっても、これこれについて言及しなければ片手落ちではないか、あるいはかくかくしかじかと、よけいな言及が過ぎるのではないか、と過不足に気づくことです。
次に、書き手が書かなかった、さらに書き過ぎているときは、何かを隠すか目くらましのためではないかと疑うことです。簡単に言うと、いわゆるリテラシーですね。
日本の大学の成果は米企業に 本庶氏「見る目ない」
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36792840T21C18A0MM8000/
日本の大学などの研究論文がどこでビジネスの種である特許に結びついているかを調べると、米国の比率が4割を超す。研究開発力の低下が指摘されるなか、イノベーションにつながる国内の芽をどう見いだすのか、企業の「目利き力」が問われる。
すぐに気づくのは、「日本の大学はもっと企業から学べ」という声がこの数十年の間、主に日経のようなメディアから熱心に発信されてきたことです。企業の即戦力となるような人材育成を大学教育は果たさねばならない。企業に門戸を開いた研究活動を促進しなければならない。そういう企業側の要請を代弁した声に、メディアから異議が唱えられたことはありませんでした。
おかげで、「大学にも企業努力を(持ち込むべき)」という掛け声から、そのまま、「大学の企業努力」を求めるのが当たり前になりました。そうした企業の要請を社会の声として、メディアが文部科学省の尻を叩き、大学改革を迫ってきたという事実と経緯については、跡形もなく書いていません。
大学が生み出した研究成果について、日本企業に「見る目ない」のなら、見る目のある米企業に比べて、日本企業には著しく企業努力が足りない。にもかかわらず、大学側にだけ改革という名目で、企業努力を求めてきた日経新聞の責任や反省はないのか。同様に、メディアも「見る目ない」のではないか。論理的な帰結とはそういうものでしょう。
この日経記事では、書かれている行、書かれていない行間を含めて、書き手と読み手の間に読解を巡る応酬はありません。文学や思想に関わる文章ではなく報道記事だからというだけなく、書き手が報道機関の機関性に拠っているからです。何も書かれていない行間はただの空白であり、書かれていることだけが事実であり、そのまま読めばよいという関係性です。
もちろん、書き手も一人の国民や人間であろうとする報道記事もあります。そこでは何を省こうとも、自らを含む国民の視線や言及を棚上げしたり避けることはあり得ません。それとわかる形ではなくとも、それこそ行間に苦渋や逡巡、諦念などが込められるものです。それは書き手の努力や姿勢というより、あらかじめ設定した読み手、読者との関係性からもたされるものです。
その記事が正確な事実に基づいて書かれているか、書き手の判断や考察は妥当なものか、当該の分野について無知不案内な読み手が判断するとき、それは物差しとなるものです。この記事は私にわかるように、私宛に書かれたものか、そうであれば、書き手の意識の流れが読み手に感じられて伝わるものです。
「行間を読む」とは何か高度で複雑な読解に関わることではなく、つまりは最初の一歩なのです。
行間がない文章はあり得ないが、行間を持たない文章はあります。機関から国民や消費者へ向けた連絡や広報文書の多くがそうであり、残念ながら、少なからぬ報道記事もこれに準ずるものになりました。反対に、どれほど人の感情に訴えてこようと、個人を前面に出して語られていようとも、為にするために書かれた行間を持たない文章もあります。
いや、「このエッセイ、小説の登場人物のモデルは私に違いない」と筆者のところに押しかけるのは妄想からの一体化であって、同期ではありません。
(止め)
言い換えれば、「行間を埋める」書き手と「行間を読める」読み手との共感の空間を行間と呼ぶのです。
ただし、上記は文学や思想分野の文章にほぼ当てはまるもので、報道記事などではべつの「行間を読む」読み方が求められます。論理的には、どういう考えであっても、これこれについて言及しなければ片手落ちではないか、あるいはかくかくしかじかと、よけいな言及が過ぎるのではないか、と過不足に気づくことです。
次に、書き手が書かなかった、さらに書き過ぎているときは、何かを隠すか目くらましのためではないかと疑うことです。簡単に言うと、いわゆるリテラシーですね。
日本の大学の成果は米企業に 本庶氏「見る目ない」
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36792840T21C18A0MM8000/
日本の大学などの研究論文がどこでビジネスの種である特許に結びついているかを調べると、米国の比率が4割を超す。研究開発力の低下が指摘されるなか、イノベーションにつながる国内の芽をどう見いだすのか、企業の「目利き力」が問われる。
すぐに気づくのは、「日本の大学はもっと企業から学べ」という声がこの数十年の間、主に日経のようなメディアから熱心に発信されてきたことです。企業の即戦力となるような人材育成を大学教育は果たさねばならない。企業に門戸を開いた研究活動を促進しなければならない。そういう企業側の要請を代弁した声に、メディアから異議が唱えられたことはありませんでした。
おかげで、「大学にも企業努力を(持ち込むべき)」という掛け声から、そのまま、「大学の企業努力」を求めるのが当たり前になりました。そうした企業の要請を社会の声として、メディアが文部科学省の尻を叩き、大学改革を迫ってきたという事実と経緯については、跡形もなく書いていません。
大学が生み出した研究成果について、日本企業に「見る目ない」のなら、見る目のある米企業に比べて、日本企業には著しく企業努力が足りない。にもかかわらず、大学側にだけ改革という名目で、企業努力を求めてきた日経新聞の責任や反省はないのか。同様に、メディアも「見る目ない」のではないか。論理的な帰結とはそういうものでしょう。
この日経記事では、書かれている行、書かれていない行間を含めて、書き手と読み手の間に読解を巡る応酬はありません。文学や思想に関わる文章ではなく報道記事だからというだけなく、書き手が報道機関の機関性に拠っているからです。何も書かれていない行間はただの空白であり、書かれていることだけが事実であり、そのまま読めばよいという関係性です。
もちろん、書き手も一人の国民や人間であろうとする報道記事もあります。そこでは何を省こうとも、自らを含む国民の視線や言及を棚上げしたり避けることはあり得ません。それとわかる形ではなくとも、それこそ行間に苦渋や逡巡、諦念などが込められるものです。それは書き手の努力や姿勢というより、あらかじめ設定した読み手、読者との関係性からもたされるものです。
その記事が正確な事実に基づいて書かれているか、書き手の判断や考察は妥当なものか、当該の分野について無知不案内な読み手が判断するとき、それは物差しとなるものです。この記事は私にわかるように、私宛に書かれたものか、そうであれば、書き手の意識の流れが読み手に感じられて伝わるものです。
「行間を読む」とは何か高度で複雑な読解に関わることではなく、つまりは最初の一歩なのです。
行間がない文章はあり得ないが、行間を持たない文章はあります。機関から国民や消費者へ向けた連絡や広報文書の多くがそうであり、残念ながら、少なからぬ報道記事もこれに準ずるものになりました。反対に、どれほど人の感情に訴えてこようと、個人を前面に出して語られていようとも、為にするために書かれた行間を持たない文章もあります。
いや、「このエッセイ、小説の登場人物のモデルは私に違いない」と筆者のところに押しかけるのは妄想からの一体化であって、同期ではありません。
(止め)