千葉県野田市の10歳の少女が実の父親によって日常的に虐待されて殺された事件では、学校・教委・児相のいずれもが虐待を知っていながら、なんら実効的な措置を取れず、あるいは取らなかったのではと疑われています。
それどころか、教委は被害少女が虐待を訴えたアンケートのコピーを加害父親の「威圧的な態度に屈して」(2月2日 読売新聞コラム「編集手帳」)渡してしまい、彼女の殺害に至るきっかけのひとつをつくった可能性すら考えられます。
これについて、木村草太・首都大学教授は次のような発言をしています。
>虐待加害者への対応は、教職員には無理。子どもはもちろん、教職員にとっても危険。
ここに違和感を拭えませんでした。「子どもはもちろん、教職員にとっても危険」と子どもと教職員の「危険」をほとんど同列視しています。
10歳の少女が夜中に起こされて父親から殴られたり蹴られたりする「危険」と、教委の職員が父親から恫喝されて震え上がる「危険」が、同じ「危険」の列に並び、いっしょに「安全」や「安心」の切符を渡されるまで待つかのように思えてしまいます。たとえ、11歳の少女が先に、教職員がその後ろに並んでいるのだとしても。
危険は英語の”risk”や”danger”として訳されるが、両者にはニュアンスの違いがあるとされます。たとえば、「risk を take する」というように、投資をすれば損失が出る場合などは「リスク」、あるいは「この先クマ出没」など danger zone の立看板に使うのが「デンジャー」です。「リスク」は能動的に取りに行くもの、「デンジャー」は受動的に被(こうむ)るものと整理できます。
国際関係論では「危険」を「リスク」と「デインジャー」に使い分ける。リスクというのは「マネージ」したり、「コントロール」したり、「ヘッジ」したりできる危険のことである。デインジャーというのは、そういう手立てがまったく効かない種類の危険のことである。サッカーの試合で、残り時間5分で1点のビハインドというのはリスクである。サッカースタジアムにゴジラが来襲してきて、人々を踏みつぶし始めるというのはデインジャーである。デインジャーとはまさかそんなことが起こるとは誰も予測しなかったために、そのためのマニュアルもガイドラインもない事態のことである。( ">内田樹の研究室)
どうも、「ニュアンスの違い」では控えめすぎるようです。少なくも、10歳の少女の視線を想像してみれば、殴る蹴るを繰り返すときの父親は、彼女にとって「恐怖」が姿を成した「怪物」だったかもしれません。
日常的な父親の虐待を「管理・制御・回避」する能力や方法が彼女にあったとはとうてい思えないので、彼女の「危険」とはあきらかに「リスク」ではなく、「デンジャー」だといえます。ここまでは誰しも同意できるはずです。
では、教職員にとっても、「デンジャー」だったかということです。学校の教員や教委・児相の職員にはどんな危険があったのでしょうか。加害父親から暴力を振るわれたのでしょうか。
千葉 小4女児死亡 野田市教委 ”父からいじめ”アンケートのコピーを父親に
>強い要求に屈してしまった
と加害父親の「恫喝的な要求」について、野田市教育委員会の教育部次長はそう語っています。
アンケートのコピーを父親に手渡したのはこの教育部次長と指導課長の幹部二人ということです。少なくとも父親一人に対し二人はいたわけです。教委の建物の中ですから、ほかにも職員はいたでしょう。
加害父親は、「恫喝的な要求」の際に、「誘拐だ!」と批難したしたそうですから、これを踏まえて、木村草太教授は、「弁護士の派遣」などが必要だと提言しているのでしょう。
法律的な観点から、居合わせた弁護士が直ちに反論したり、違法性を指摘すれば、たしかにその場の対応はできるでしょう。しかし、それ以上それ以外については、なにも済んだことにはならず、解決の道などどこにも見えません。
しかしながら、木村教授よれば、そうした「対応」ですら難しいそうです。ほかのツイートではこうも言っています。
>いじめ加害者(児童・生徒)への対応も困難な学校・教育委員会に、児童虐待加害者(大人)への対応が可能であると思っている人がたくさんいることに、正直驚いている。
「正直驚いている」というのに、私も正直驚きました。
>よほどの専門知識がない限り、DV・虐待・パワハラ加害者に対して、適切な対応を取るのは難しい。
この場合の「専門知識」とは、具体的には児童保護法など法律的な知識と虐待案件を扱った経験豊かな弁護士やカウンセラーなど専門家を指すのでしょう。
もちろん、この提言に異議などありません。そうした専門家の支援は必要とされ、有効だろうと認めるのには吝かではありません。しかし、木村教授の発言で注意すべきは、問題とされ課題とされているのは、どこまでも「対応」に限られていることです。
それは虐待の事実に対して、全面的に「対応」するのではなく、教職員が晒される「危険」という一部への「対応」です。
「子どもはもちろん、教職員にとっても危険」と子どもを主としながら、そこで語られることは従である教職員が、「安全安心」に「対応」できる術ばかりといえないでしょうか。
もちろん、限られた字数のツイッターで多くを語ることはできないし、法学部教授の立場から、当面の処方箋を出しただけなのかもしれません。また、そうした「対応」の体制や準備を整えることも虐待被害の救済につながるといわれるかもしれません。
なるほど、「やがては」つながるかもしれませんが、けっして「同時に」ではなく、「先んじて」でもないはずです。つまり、時間差があります。虐待されている子どもの「安全安心」は後回しにされているとまではいいませんが、「子どもはもちろん」と当然視されるほど、万全な態勢が施されていれば、今回のような事件は起こりえなかったはずです。
あるいは、「子どもはもちろん」に続くのが具体的な万全な態勢ではなく、子どもの「安全安心」を主に、第一に考えるとする体制づくりの指針だというならば、いささか欺瞞的な言葉遣いといわざるを得ず、それなら、まず教職員の「安全安心」を確保してから救済に取り組むとしたほうが、いっそわかりやすく誠実に思えます。
どのように専門家を動員し、そのための予算を組んだとしても、学校や教委、児相の会議室や応接室は「対応」の場に過ぎず、そこが「現場」となることを避けている、避けたいという心底を露呈する議論にしかみえないのです。
側面からの支援は必要ですが、家庭やその周辺という虐待の「現場」に赴き、いまそこで行われている虐待を止め、加害者から引き離して、安全を確保する具体的な行動が取れるのは、やはり、地域の、現場の教職員以外にいないのです。
その教職員の少なからずが、そうした支援の体制づくりのための会議や打ち合わせ、それに伴う連携や協力関係を構築維持するために、多くの書類づくりの負担に耐え、労力と時間を割かねばならないという「本末転倒」も容易に予測できます。
しかしながら、私たちはそれを「冷徹な現実」として認めてから、「子どもへの虐待」という「事実」に向き合わなければ、これまでの10年20年と同様に、10年後20年後も同じ議論を繰り返し積み重ねて、子どもは殺され続けていくことでしょう。
そうした「現実」と「事実」を裏づけるような文科省の談話もあります。
>文科省の松本秀彰・瀬戸指導室長が(野田市)市教委を訪れ、聞き取りを実施。松本室長は、コピーを渡した対応を「虐待のリスクを高める危険な行為、許されるものではない」と批判した。(2月2日 読売新聞社会面)
「虐待のリスク」といい、虐待を「管理・制御・回避」できる「リスク」とするなら、この場合、その主体は市教委となります。虐待を「止め、予防」しなければならないという「事実」について文科省は述べているわけです。
文科省こそ、そうした批判や指摘を重く受けとめるべき上位の主体であるという批判や指摘はさておき、そうした職務への認識を共有しながら、職務に背く行為を教委幹部がするまでになっているという「現実」を批判しているのです。
弁護士を同席させれば、警察が介入すれば、とあれこれ不備や不足を並べ立てることによって、教職員の対応を万全にすることは後手に回ろうとする努力に思えます。子どもを救うために一歩を踏み出し、子どもをどう「安全安心」の場に置くかという教職員の行動がなければ、向かってくる加害親へ対応策も組み立てられないのが道理のはずです。
たった一人の暴力団員でもなければ、凶器も持たない中年男の威圧的な態度と恫喝に複数の教委幹部が屈するようでは、どのような「支援」もさほど役立ちそうにありませんが、私は加害父親の圧力に怯えて屈したという教委幹部の言葉通りには信じていません。
リスクとデンジャーに戻れば、彼らはただ受動的に「冷徹な現実」をリスクと追認して、能動的な「遂行的な事実」をデンジャーとして目を背けたのではないかと考えます。リスクとデンジャーを取り違えて誤認しているので、簡単に加害父親に「屈した」と思えます。
殺された10歳の少女にとっては、いうまでもなく、虐待を受けているという「冷徹な現実」こそがデンジャーであり、「先生、どうにかなりませんか」とリスクを冒してアンケートに書き、「遂行的な事実」を期待したのでした。にもかかわらず、結果的には誰もそれに応えないばかりか、デンジャーを招き寄せて、「冷徹な現実」に呑み込ませてしまいました。
子どもの「安全安心」は確保されなければならないとは、いまそこにある「遂行的な事実」にほかなりません。誰かがどこかに子どもの「安全安心」の場を用意しなければならず、それが彼ら教職員の職務であることも「遂行的な事実」なのです。
さて、親の子どもへの虐待について、画期的な取り組みがあるとすれば、虐待する親をも救わなければ、根本的な解決の道は見い出せないはずという「事実」があります。
事件となった後、あるいは事件化することで、逮捕や拘留などの司法に拠って虐待親から被害の子を避難させるだけでなく、その逆の手順も重要でしょう。
虐待をする理由や原因を把握しながら、カウンセリングや入院治療などを通して、「病気」や「障害」という福祉の観点から、虐待親の方を子から心理的にも引き離すわけです。その場合、弁護士だけでなく医師などとの連携協力、また生活支援なども必要とされます。
子を守るために、親を救うために、一歩踏み出すという取り組みは、「窓口対応」ではできず、やはり「現場対応」が求められます。「窓口」に連なる行政組織が「現場」を「支援」する取り組みではなく、「窓口の現場化」こそが必要でしょう。
教委に押しかけて執拗にアンケートを手渡すように求めた、今回の虐待父親の例から気づくことは、「窓口」の「対応」の拙劣さですが、その解決策としては、なるべく「窓口」を「現場」から遠ざけるか、「窓口」が「現場」として機能するかの二つが考えられます。
虐待父親は学校でアンケートの開示を拒否されたから教委に向かったのですから、つまり彼の赴くところが現場になったのに、「子どもの同意書を持参した」という形式主義にとらわれてコピーを手渡すという「窓口対応」をしたといえます。
木村教授の提言する現場への支援策は、「窓口」から「現場」を遠ざけ、「現場」の負担をますます増す結果になりかねません。子どもを守るための緊急避難的な対応を主眼とすれば、学校や児相の「現場」に限られますが、虐待する親への「対応」を避けられないとすれば、「窓口の現場化」もまた、避けられないはずです。
人も予算も限られているならなおさら、「窓口の現場化」して、「遂行的な事実」を積み上げねば、機能停止するだけでなく、坂道をずり落ちるように統治機構そのものが自壊していくに任せることになります。
明石市長の「地上げ暴言」は辞任を避けられないものですが、交通事故死が起きたのに放置してきた「窓口」の「現場」意識の欠落への指摘は頷けるものです。そうした意識改革は難しいものですが、「窓口」を否応なく「現場」にしてしまう方策はいくつも考えられます。
(止め)
それどころか、教委は被害少女が虐待を訴えたアンケートのコピーを加害父親の「威圧的な態度に屈して」(2月2日 読売新聞コラム「編集手帳」)渡してしまい、彼女の殺害に至るきっかけのひとつをつくった可能性すら考えられます。
これについて、木村草太・首都大学教授は次のような発言をしています。
野田市の虐待死に関連して、学校・教育委員会への批判が高まっている。
— 木村草太 (@SotaKimura) 2019年1月31日
確かに、あの対応はあり得ない。でも、よほどの専門知識がない限り、DV・虐待・パワハラ加害者に対して、適切な対応を取るのは難しい。普通は、暴力に飲み込まれる。
必要なのは、その難しさを自覚して、専門家に相談すること。
>虐待加害者への対応は、教職員には無理。子どもはもちろん、教職員にとっても危険。
ここに違和感を拭えませんでした。「子どもはもちろん、教職員にとっても危険」と子どもと教職員の「危険」をほとんど同列視しています。
10歳の少女が夜中に起こされて父親から殴られたり蹴られたりする「危険」と、教委の職員が父親から恫喝されて震え上がる「危険」が、同じ「危険」の列に並び、いっしょに「安全」や「安心」の切符を渡されるまで待つかのように思えてしまいます。たとえ、11歳の少女が先に、教職員がその後ろに並んでいるのだとしても。
危険は英語の”risk”や”danger”として訳されるが、両者にはニュアンスの違いがあるとされます。たとえば、「risk を take する」というように、投資をすれば損失が出る場合などは「リスク」、あるいは「この先クマ出没」など danger zone の立看板に使うのが「デンジャー」です。「リスク」は能動的に取りに行くもの、「デンジャー」は受動的に被(こうむ)るものと整理できます。
国際関係論では「危険」を「リスク」と「デインジャー」に使い分ける。リスクというのは「マネージ」したり、「コントロール」したり、「ヘッジ」したりできる危険のことである。デインジャーというのは、そういう手立てがまったく効かない種類の危険のことである。サッカーの試合で、残り時間5分で1点のビハインドというのはリスクである。サッカースタジアムにゴジラが来襲してきて、人々を踏みつぶし始めるというのはデインジャーである。デインジャーとはまさかそんなことが起こるとは誰も予測しなかったために、そのためのマニュアルもガイドラインもない事態のことである。( ">内田樹の研究室)
どうも、「ニュアンスの違い」では控えめすぎるようです。少なくも、10歳の少女の視線を想像してみれば、殴る蹴るを繰り返すときの父親は、彼女にとって「恐怖」が姿を成した「怪物」だったかもしれません。
日常的な父親の虐待を「管理・制御・回避」する能力や方法が彼女にあったとはとうてい思えないので、彼女の「危険」とはあきらかに「リスク」ではなく、「デンジャー」だといえます。ここまでは誰しも同意できるはずです。
では、教職員にとっても、「デンジャー」だったかということです。学校の教員や教委・児相の職員にはどんな危険があったのでしょうか。加害父親から暴力を振るわれたのでしょうか。
千葉 小4女児死亡 野田市教委 ”父からいじめ”アンケートのコピーを父親に
>強い要求に屈してしまった
と加害父親の「恫喝的な要求」について、野田市教育委員会の教育部次長はそう語っています。
アンケートのコピーを父親に手渡したのはこの教育部次長と指導課長の幹部二人ということです。少なくとも父親一人に対し二人はいたわけです。教委の建物の中ですから、ほかにも職員はいたでしょう。
加害父親は、「恫喝的な要求」の際に、「誘拐だ!」と批難したしたそうですから、これを踏まえて、木村草太教授は、「弁護士の派遣」などが必要だと提言しているのでしょう。
法律的な観点から、居合わせた弁護士が直ちに反論したり、違法性を指摘すれば、たしかにその場の対応はできるでしょう。しかし、それ以上それ以外については、なにも済んだことにはならず、解決の道などどこにも見えません。
しかしながら、木村教授よれば、そうした「対応」ですら難しいそうです。ほかのツイートではこうも言っています。
>いじめ加害者(児童・生徒)への対応も困難な学校・教育委員会に、児童虐待加害者(大人)への対応が可能であると思っている人がたくさんいることに、正直驚いている。
「正直驚いている」というのに、私も正直驚きました。
>よほどの専門知識がない限り、DV・虐待・パワハラ加害者に対して、適切な対応を取るのは難しい。
この場合の「専門知識」とは、具体的には児童保護法など法律的な知識と虐待案件を扱った経験豊かな弁護士やカウンセラーなど専門家を指すのでしょう。
もちろん、この提言に異議などありません。そうした専門家の支援は必要とされ、有効だろうと認めるのには吝かではありません。しかし、木村教授の発言で注意すべきは、問題とされ課題とされているのは、どこまでも「対応」に限られていることです。
それは虐待の事実に対して、全面的に「対応」するのではなく、教職員が晒される「危険」という一部への「対応」です。
「子どもはもちろん、教職員にとっても危険」と子どもを主としながら、そこで語られることは従である教職員が、「安全安心」に「対応」できる術ばかりといえないでしょうか。
もちろん、限られた字数のツイッターで多くを語ることはできないし、法学部教授の立場から、当面の処方箋を出しただけなのかもしれません。また、そうした「対応」の体制や準備を整えることも虐待被害の救済につながるといわれるかもしれません。
なるほど、「やがては」つながるかもしれませんが、けっして「同時に」ではなく、「先んじて」でもないはずです。つまり、時間差があります。虐待されている子どもの「安全安心」は後回しにされているとまではいいませんが、「子どもはもちろん」と当然視されるほど、万全な態勢が施されていれば、今回のような事件は起こりえなかったはずです。
あるいは、「子どもはもちろん」に続くのが具体的な万全な態勢ではなく、子どもの「安全安心」を主に、第一に考えるとする体制づくりの指針だというならば、いささか欺瞞的な言葉遣いといわざるを得ず、それなら、まず教職員の「安全安心」を確保してから救済に取り組むとしたほうが、いっそわかりやすく誠実に思えます。
どのように専門家を動員し、そのための予算を組んだとしても、学校や教委、児相の会議室や応接室は「対応」の場に過ぎず、そこが「現場」となることを避けている、避けたいという心底を露呈する議論にしかみえないのです。
側面からの支援は必要ですが、家庭やその周辺という虐待の「現場」に赴き、いまそこで行われている虐待を止め、加害者から引き離して、安全を確保する具体的な行動が取れるのは、やはり、地域の、現場の教職員以外にいないのです。
その教職員の少なからずが、そうした支援の体制づくりのための会議や打ち合わせ、それに伴う連携や協力関係を構築維持するために、多くの書類づくりの負担に耐え、労力と時間を割かねばならないという「本末転倒」も容易に予測できます。
しかしながら、私たちはそれを「冷徹な現実」として認めてから、「子どもへの虐待」という「事実」に向き合わなければ、これまでの10年20年と同様に、10年後20年後も同じ議論を繰り返し積み重ねて、子どもは殺され続けていくことでしょう。
そうした「現実」と「事実」を裏づけるような文科省の談話もあります。
>文科省の松本秀彰・瀬戸指導室長が(野田市)市教委を訪れ、聞き取りを実施。松本室長は、コピーを渡した対応を「虐待のリスクを高める危険な行為、許されるものではない」と批判した。(2月2日 読売新聞社会面)
「虐待のリスク」といい、虐待を「管理・制御・回避」できる「リスク」とするなら、この場合、その主体は市教委となります。虐待を「止め、予防」しなければならないという「事実」について文科省は述べているわけです。
文科省こそ、そうした批判や指摘を重く受けとめるべき上位の主体であるという批判や指摘はさておき、そうした職務への認識を共有しながら、職務に背く行為を教委幹部がするまでになっているという「現実」を批判しているのです。
弁護士を同席させれば、警察が介入すれば、とあれこれ不備や不足を並べ立てることによって、教職員の対応を万全にすることは後手に回ろうとする努力に思えます。子どもを救うために一歩を踏み出し、子どもをどう「安全安心」の場に置くかという教職員の行動がなければ、向かってくる加害親へ対応策も組み立てられないのが道理のはずです。
たった一人の暴力団員でもなければ、凶器も持たない中年男の威圧的な態度と恫喝に複数の教委幹部が屈するようでは、どのような「支援」もさほど役立ちそうにありませんが、私は加害父親の圧力に怯えて屈したという教委幹部の言葉通りには信じていません。
リスクとデンジャーに戻れば、彼らはただ受動的に「冷徹な現実」をリスクと追認して、能動的な「遂行的な事実」をデンジャーとして目を背けたのではないかと考えます。リスクとデンジャーを取り違えて誤認しているので、簡単に加害父親に「屈した」と思えます。
殺された10歳の少女にとっては、いうまでもなく、虐待を受けているという「冷徹な現実」こそがデンジャーであり、「先生、どうにかなりませんか」とリスクを冒してアンケートに書き、「遂行的な事実」を期待したのでした。にもかかわらず、結果的には誰もそれに応えないばかりか、デンジャーを招き寄せて、「冷徹な現実」に呑み込ませてしまいました。
子どもの「安全安心」は確保されなければならないとは、いまそこにある「遂行的な事実」にほかなりません。誰かがどこかに子どもの「安全安心」の場を用意しなければならず、それが彼ら教職員の職務であることも「遂行的な事実」なのです。
さて、親の子どもへの虐待について、画期的な取り組みがあるとすれば、虐待する親をも救わなければ、根本的な解決の道は見い出せないはずという「事実」があります。
事件となった後、あるいは事件化することで、逮捕や拘留などの司法に拠って虐待親から被害の子を避難させるだけでなく、その逆の手順も重要でしょう。
虐待をする理由や原因を把握しながら、カウンセリングや入院治療などを通して、「病気」や「障害」という福祉の観点から、虐待親の方を子から心理的にも引き離すわけです。その場合、弁護士だけでなく医師などとの連携協力、また生活支援なども必要とされます。
子を守るために、親を救うために、一歩踏み出すという取り組みは、「窓口対応」ではできず、やはり「現場対応」が求められます。「窓口」に連なる行政組織が「現場」を「支援」する取り組みではなく、「窓口の現場化」こそが必要でしょう。
教委に押しかけて執拗にアンケートを手渡すように求めた、今回の虐待父親の例から気づくことは、「窓口」の「対応」の拙劣さですが、その解決策としては、なるべく「窓口」を「現場」から遠ざけるか、「窓口」が「現場」として機能するかの二つが考えられます。
虐待父親は学校でアンケートの開示を拒否されたから教委に向かったのですから、つまり彼の赴くところが現場になったのに、「子どもの同意書を持参した」という形式主義にとらわれてコピーを手渡すという「窓口対応」をしたといえます。
木村教授の提言する現場への支援策は、「窓口」から「現場」を遠ざけ、「現場」の負担をますます増す結果になりかねません。子どもを守るための緊急避難的な対応を主眼とすれば、学校や児相の「現場」に限られますが、虐待する親への「対応」を避けられないとすれば、「窓口の現場化」もまた、避けられないはずです。
人も予算も限られているならなおさら、「窓口の現場化」して、「遂行的な事実」を積み上げねば、機能停止するだけでなく、坂道をずり落ちるように統治機構そのものが自壊していくに任せることになります。
明石市長の「地上げ暴言」は辞任を避けられないものですが、交通事故死が起きたのに放置してきた「窓口」の「現場」意識の欠落への指摘は頷けるものです。そうした意識改革は難しいものですが、「窓口」を否応なく「現場」にしてしまう方策はいくつも考えられます。
(止め)