コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

風の歌を聴け

2020-09-04 22:49:00 | 政治
反知性主義者たちの肖像
http://blog.tatsuru.com/2020/09/03_1232.html

正直、「反知性主義」とは、「知識人VS大衆」、「カシコとアホ」の争闘と思っていたので、どうひいき目にみても、「大衆」かつ「アホ」に近い私としては、なんとか「反知性主義」の肩を持てないか、ひそかに呻吟しておりました。

頭でっかちに対する直感・情動・肉体の反撃ではないかとか、ヨーロッパ的な知性に対する酔っ払い的なツッコミとか、あるいは、幸島のニホンザルのイモ洗いのライアル・ワトソン「仮説」のようなものではないかとか、いろいろ考えたものです。

ローリングストーンズの曲名まで駆使した、この浩瀚な論考を読みながら、「反知性主義の知識人VS知性主義の知識人」の比較に、少しく寂しい思いを味わいました。何のことはない、私には関係がなかったのです。

ふむふむ、なるほど、そうだったのか、と読んできて、自分には関係ない論件だったのかあ、ではちょっと口惜しいので、にしても、やっぱり、「知性主義の知識人VS反知性主義の知識人に踊らされるアホ大衆」という「知識人VS大衆」「カシコとアホ」の構図は残るじゃないかと脳内ツッコミをしてみたり。

しかし、そうではなかったのでした。筆者の「知性」の定義を読めば、それが頭のよい個人や集団が所有したり、属したりするものではなく、今を生きる私たちだけのものでさえないことが、懇切に説かれています。

ようするに、幸島のニホンザルのイモ洗い伝搬のライアル・ワトソン「仮説」のようなものが、筆者のいう「知性」ではないかと。この「ようするに」という半知や、あくまでも自説にこだわるところなど、典型的な「反知性主義」でした。

開けられた窓にレースのカーテンが揺れている。空の青さや雲の白さ、風のそよぎを感じられる文章です。何よりそれが筆者の思考や主張を裏づけているのではないでしょうか。

(止め)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする