この日の朝日新聞のなかで、もっとも面白かったのが、「法の番人」インタビュー記事の下段、「多事奏論」だ。今回、「流し読み朝日新聞」を書いてみようと思ったのも、この高橋純子編集委員のコラム<菅政権発足 主権者には力がある、夜露死苦。>を読んだからだ。
この見出しだけでも、「どこが面白い?」と思うだろう。そのとおり、くだらない。くだらないところが面白いというのでもない。その本文も、安倍政権を「ヤンキー政治」と揶揄して、その類似点をあげつらい、ヤンキーの愚かしさやはた迷惑さが強調されているだけ。
友だちにはもちろん、リーダーに仰ぐなんてとんでもないヤンキーが安倍総理だった。だとすれば、彼の高い支持率を支えたのはヤンキー国民だったことになる。いや、ヤンキーを擁護したいのではない。見下していることへ反発しているのでもない。
「徹底した実利思考で、『理屈をこねている暇があったら行動しろ』というのが基本的なスタンス。主張の内容の是非よりも、どれだけきっぱり言ったか、言ったことを実行できたかが評価のポイント」という「ヤンキー主義」に、かねてから気になっていた話題の「ブルシット・ジョブ」を思い起こしたのだ。
安倍元総理を例外として、ヤンキーの多くは建設や工場、物流や流通労働者、農漁業従事者、あるいは職人や店舗で接客する、「現場」の人々であり、「会議室」の人ではない。
モノを作ったり、直したり、運んだり、生産に直接に関わる仕事がある一方、会議室やデスクでああでもないこうでもないと理屈をこね回して、結局は何も実行しない、日本の低い生産性を支えている、広い意味で管理の仕事がある。
そして例外なく、後者のブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)のほうが給料は高く、社会的な信用も厚い、というより、前者の「人に役立つ仕事」の稼ぎの上前をはねるだけでなく、さらに現場に低賃金と労働強化を押しつけて、浮いた分を自分たちに再分配しているといえる。
著者のデヴィッド・グレーバーがそんなブルシット・ジョブの筆頭に挙げたいくつかの職種の一つである広報調査員を経てきた者として、ブルシット・ジョブがときにひどく気が滅入る仕事であることに喜んで賛同する。クソみたいな気持ちに耐えるのが代償なのかもしれない。
くらべて、「気合とノリさえあれば、まあなんとかなるべ」というヤンキーの暢気さは羨ましいくらいだ。「『いま、ここ』を生きるという限界があって、歴史的スパンで物事を考えるのが苦手です」という指摘は、ヤンキーの「地元主義」を指すのだろうが、地元が会社や部門に変わるだけで、同様な「ムラ社会」に会議室やデスクの人も生きているといえよう。
あるいは、ヤンキーにマネジメントのマインドやスキルまで求める無理難題を課して、そのための教育と研修プランを策定し、それぞれが自己啓発の意欲を高めるチェックリストを作成し、といろいろな仕事を増やして従事するのが、それこそブルシット・ジョバー(クソどうでもいい仕事人)の本領だろう。
つまり、ヤンキーは少なくとも「人に役立つ」仕事に携わり、ブルシット・ジョブの人ではない。そして、政治家一族の世襲議員である安倍前首相の出自はヤンキーと無縁である以上に、羅列されている「ヤンキー主義」とも遠く隔たっている。
前出の<「法の番人」退任を語る>の山本庸幸さんも、「(安倍首相は)直接的に指示するのではなく、回りまわってそういう方向に話を持っていって最終的に実現させる。非常に政治的なのです」と語っている。そんな政治的なヤンキーなどいるわけがない。
言い遅れたが、ヤンキーの「徹底した実利思考」や「行動主義」とは、ノンシャランな「気合とノリ」という開き直りは、彼らの現場仕事から学んできたものなのだ。利己主義や自己顕示欲と結びつくのはその後という順序だ。
ひきかえ、安倍前首相はどうか? 国富や国益を損なうこと甚だしく、国会質疑からは逃げ官邸に引きこもり、そのくせバラマキ外交には喜んで出かける。「徹底した実利思考」や「行動主義」とはとうてい呼べない事例は数多ある。
そのいっぽう、「モリカケ」のように身内を贔屓する利己主義と「アベノミクス」や「外交の安倍」を誇示する自己顕示欲には抜かりない。いったい、どこがヤンキーに似ているというのか高橋純子さんは。
パチンコと酒に目がなく、タトゥーをしていようと、ヤンキーは手堅い仕事人だ。そうでなければ現場はたちまち立ち往生して回らなくなる。アベノマスクや電通の中抜き丸投げなどを数え上げるまでもなく、安倍前総理こそ、クソどうでもいいブルシット・ジョブの大頭目だろう。
念のために付け加えておくと、いうまでもなく、「人に役立つ仕事」をしている人すべてがヤンキーではない。ただし、その「ヤンキー主義」は言い出しっぺである斎藤環がいっているように、ブルシット・ジョブの人も含めて「社会に広く浸透している」、そこが肝なのだ。
斎藤環が「安倍ヤンキー政権」と安倍首相をダシにして、「ヤンキー主義」という社会思潮を考察しようとしたのに対して、その反対にこのコラム筆者は、ヤンキーをダシにして矮小な安倍政権批判をしようとした。他人のふんどしを後ろ前につけたようなものだ。
というわけで、残念なコラムになってしまったといえる。ただ、このコラムの冒頭に一片の詩文が置かれているのをみると、筆者はもっと深く本質的なことを書きたかったのかもしれない。
ぼくたちにとって 絶望とは/ある何かを失うことではなかった、むしろ/失うべきものを失わなかった肥大のことだ。(長田弘「無言歌」)
失うべき人心を失わず肥大化した安倍政権といいたいなら、支持した国民の責任とともに、それを許したメディアとジャーナリストの責任をも問わねばならない。いや、順序としては、自らの責任を問うのが先だろう。
とはいえ、この詩文を教えてくれた高橋純子さんに礼を言いたい。私も彼女のように、「わけもなくただ、この一節を反芻」することになりそうだ。
最後は28面の水曜掲載<探究>欄の<星の林に>を取り上げたい。
「米くるヽ友を今宵の月の客」(芭蕉)を入り口に、これぞ文芸の醍醐味を味あわせてくれる。ぜひ、筆者のピーター・J・マクミランさんには、「天声人語」を書いてもらいたいものだ。
ほかにも、31面文芸欄の「語る」で角川春樹がまだ元気そうに自慢話をしていたり、文芸時評では映画監督の吉田喜重が小説を書いていることを知ったり、巨人の菅野が開幕12連勝をしていたり、いろいろなことを知ることができた。たまには新聞も読んでみるものだなと思った、まる、
(止め)
この見出しだけでも、「どこが面白い?」と思うだろう。そのとおり、くだらない。くだらないところが面白いというのでもない。その本文も、安倍政権を「ヤンキー政治」と揶揄して、その類似点をあげつらい、ヤンキーの愚かしさやはた迷惑さが強調されているだけ。
友だちにはもちろん、リーダーに仰ぐなんてとんでもないヤンキーが安倍総理だった。だとすれば、彼の高い支持率を支えたのはヤンキー国民だったことになる。いや、ヤンキーを擁護したいのではない。見下していることへ反発しているのでもない。
「徹底した実利思考で、『理屈をこねている暇があったら行動しろ』というのが基本的なスタンス。主張の内容の是非よりも、どれだけきっぱり言ったか、言ったことを実行できたかが評価のポイント」という「ヤンキー主義」に、かねてから気になっていた話題の「ブルシット・ジョブ」を思い起こしたのだ。
安倍元総理を例外として、ヤンキーの多くは建設や工場、物流や流通労働者、農漁業従事者、あるいは職人や店舗で接客する、「現場」の人々であり、「会議室」の人ではない。
モノを作ったり、直したり、運んだり、生産に直接に関わる仕事がある一方、会議室やデスクでああでもないこうでもないと理屈をこね回して、結局は何も実行しない、日本の低い生産性を支えている、広い意味で管理の仕事がある。
そして例外なく、後者のブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)のほうが給料は高く、社会的な信用も厚い、というより、前者の「人に役立つ仕事」の稼ぎの上前をはねるだけでなく、さらに現場に低賃金と労働強化を押しつけて、浮いた分を自分たちに再分配しているといえる。
著者のデヴィッド・グレーバーがそんなブルシット・ジョブの筆頭に挙げたいくつかの職種の一つである広報調査員を経てきた者として、ブルシット・ジョブがときにひどく気が滅入る仕事であることに喜んで賛同する。クソみたいな気持ちに耐えるのが代償なのかもしれない。
くらべて、「気合とノリさえあれば、まあなんとかなるべ」というヤンキーの暢気さは羨ましいくらいだ。「『いま、ここ』を生きるという限界があって、歴史的スパンで物事を考えるのが苦手です」という指摘は、ヤンキーの「地元主義」を指すのだろうが、地元が会社や部門に変わるだけで、同様な「ムラ社会」に会議室やデスクの人も生きているといえよう。
あるいは、ヤンキーにマネジメントのマインドやスキルまで求める無理難題を課して、そのための教育と研修プランを策定し、それぞれが自己啓発の意欲を高めるチェックリストを作成し、といろいろな仕事を増やして従事するのが、それこそブルシット・ジョバー(クソどうでもいい仕事人)の本領だろう。
つまり、ヤンキーは少なくとも「人に役立つ」仕事に携わり、ブルシット・ジョブの人ではない。そして、政治家一族の世襲議員である安倍前首相の出自はヤンキーと無縁である以上に、羅列されている「ヤンキー主義」とも遠く隔たっている。
前出の<「法の番人」退任を語る>の山本庸幸さんも、「(安倍首相は)直接的に指示するのではなく、回りまわってそういう方向に話を持っていって最終的に実現させる。非常に政治的なのです」と語っている。そんな政治的なヤンキーなどいるわけがない。
言い遅れたが、ヤンキーの「徹底した実利思考」や「行動主義」とは、ノンシャランな「気合とノリ」という開き直りは、彼らの現場仕事から学んできたものなのだ。利己主義や自己顕示欲と結びつくのはその後という順序だ。
ひきかえ、安倍前首相はどうか? 国富や国益を損なうこと甚だしく、国会質疑からは逃げ官邸に引きこもり、そのくせバラマキ外交には喜んで出かける。「徹底した実利思考」や「行動主義」とはとうてい呼べない事例は数多ある。
そのいっぽう、「モリカケ」のように身内を贔屓する利己主義と「アベノミクス」や「外交の安倍」を誇示する自己顕示欲には抜かりない。いったい、どこがヤンキーに似ているというのか高橋純子さんは。
パチンコと酒に目がなく、タトゥーをしていようと、ヤンキーは手堅い仕事人だ。そうでなければ現場はたちまち立ち往生して回らなくなる。アベノマスクや電通の中抜き丸投げなどを数え上げるまでもなく、安倍前総理こそ、クソどうでもいいブルシット・ジョブの大頭目だろう。
念のために付け加えておくと、いうまでもなく、「人に役立つ仕事」をしている人すべてがヤンキーではない。ただし、その「ヤンキー主義」は言い出しっぺである斎藤環がいっているように、ブルシット・ジョブの人も含めて「社会に広く浸透している」、そこが肝なのだ。
斎藤環が「安倍ヤンキー政権」と安倍首相をダシにして、「ヤンキー主義」という社会思潮を考察しようとしたのに対して、その反対にこのコラム筆者は、ヤンキーをダシにして矮小な安倍政権批判をしようとした。他人のふんどしを後ろ前につけたようなものだ。
というわけで、残念なコラムになってしまったといえる。ただ、このコラムの冒頭に一片の詩文が置かれているのをみると、筆者はもっと深く本質的なことを書きたかったのかもしれない。
ぼくたちにとって 絶望とは/ある何かを失うことではなかった、むしろ/失うべきものを失わなかった肥大のことだ。(長田弘「無言歌」)
失うべき人心を失わず肥大化した安倍政権といいたいなら、支持した国民の責任とともに、それを許したメディアとジャーナリストの責任をも問わねばならない。いや、順序としては、自らの責任を問うのが先だろう。
とはいえ、この詩文を教えてくれた高橋純子さんに礼を言いたい。私も彼女のように、「わけもなくただ、この一節を反芻」することになりそうだ。
最後は28面の水曜掲載<探究>欄の<星の林に>を取り上げたい。
「米くるヽ友を今宵の月の客」(芭蕉)を入り口に、これぞ文芸の醍醐味を味あわせてくれる。ぜひ、筆者のピーター・J・マクミランさんには、「天声人語」を書いてもらいたいものだ。
ほかにも、31面文芸欄の「語る」で角川春樹がまだ元気そうに自慢話をしていたり、文芸時評では映画監督の吉田喜重が小説を書いていることを知ったり、巨人の菅野が開幕12連勝をしていたり、いろいろなことを知ることができた。たまには新聞も読んでみるものだなと思った、まる、
(止め)