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情けないスポーツマン

2021-04-02 06:50:00 | 政治
オリンピックに殺される。開閉会式の差別的演出と非情なスポーツマンたち
https://news.yahoo.co.jp/articles/209f84b2bbbb7e7f40c3229a5263c1761bdc811c?page=2

>スポーツマンは本当に非情です。オリンピック招致をめぐる贈収賄疑惑が公になっても、スポーツ関係者から問題を追及する声は出てきません。新国立競技場の建設現場で若い現場監督が過労死していても、スポーツ関係者は弔辞の一つも出しません。オリ・パラリンピックを支える余裕はないと医療関係者が悲鳴を上げていても、スポーツ関係者は我関せずです。およそ血の通った人間であれば、もう大会はやめようと言うべきところですが、数多いるスポーツマンたちはまったく沈黙しているのです。そういう反社会的な態度をとりながら、「ワンチーム! ワンチーム!」と呼びかけてくる。こんな非情な人たちに関わっていたら、命がいくつあっても足りません。オリ・パラリンピックに巻き込まれないように、一刻も早く東京から退避するべきだと思います。

かつてはスポーツマン、いまではアスリートとかいうけど、観客は運動会に出る子どもをみるように、「よくがんばったね、えらいね」、あるいは「よくがんばったのに、残念だったね」と観ているだけ。

選手の努力の積み重ねや競技の妙や醍醐味などに関心はない。いわんや彼や彼女の成果を「人類の達成」とする視野などないから、選手をいたずらに英雄視することもない代わりに、敬意を抱くこともない。

それどころか、「運動バカ」「筋肉脳」くらい一段低く思っているから、政治的発言など論外で、オリンピック開催に言上げするなども僭越ととらえ反感を抱くというのが、実際のところではないか。

「大変でしょうが、ぼくたちも頑張りますから、なんとかオリンピックを開催してほしい、と個人的には祈るような気持ちです」というのが正答であって、「運動会を楽しみにして、一生懸命練習してきた子どもたちがかわいそうじゃないか」という「素朴」な気持ちがその前提とされている。

広告屋の宣伝文句から広まった「勇気を感動をありがとう」も、「子育てしていると、学ぶことも多いし、ぎゃくに励まされて、頑張ろうという気になりますよ」というよくある子どもをだしにした「私自慢」とさして変わりはない。

スポーツ界にどんな不祥事が起きようと、つねに「選手に罪はない」とされるのは、つまりは「子どもに罪はない」と選ぶところがないわけだ。選手を子ども扱いするスポーツ界の指導者やスポーツ団体の幹部もまた、選手上がりの大人子どもだから、躾や指導に名を借りた暴力、パワハラ、セクハラが絶えることがない。

もちろん、最大の問題は「バカ親」たちである国民にあるのだが、「子どもに罪はない」のなら、結局、親にも罪はないことになるので、八方丸く収まるのである。「責任を痛感している」という発語ほど、無責任を言明する言葉もほかにないだろう。James F.氏がいうように、ほんとうに日本語はその内実を失って久しい。

上記の記事中、「非情なスポーツマンたち」が羊頭狗肉なほど分量が少なく後味がよくないので、実も蓋もない素材に戻してみたが、いうまでもなく、ラグビーの平尾剛氏のような例外はある。スポーツ団体の幹部が、「多様なご意見を伺う」ときにもけっして呼ばれることはないのだが。

【一発撮り‼︎】鈴木紗理奈です。バチバチ気合入れてうっせぇわ歌ってみました[ado]


大ヒットしているそうです。「うん、あの歌ね、あれはコラージュっていうかあ」と解説オジして「うっせぇわ」と返される、「声かけ事案」があちらこちらで発生しているでしょう。
(止め)

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