ナベさんとか、ツネさんと呼ばれる人は、全国にたくさんいるだろうが、「ナベツネ」といえば、この人しかいない。
渡邉恒雄、1926年(大正15年)生まれ、85歳。読売新聞グループ本社代表取締役会長兼主筆、株式会社読売巨人軍代表取締役会長。旭日大綬章。「読売のドン」「日本球界のドン」「政界フィクサー」として知られ、その傲岸不遜の独裁者的な振る舞いから、通称、「ナベツネ」と呼ばれる。
この「ナベツネ」とは、けっして、愛称ではないはずだ。「ナベツネさんが、こういった、あんなことをした」と敬愛を込めて語られるという場面は、ちょっと想像できない。しかし、「ナベツネ」もあの仏頂面の85歳で生まれてきたわけではない。信じられないが、彼にも青年の日々があった。そのとき、「ナベツネ」は愛称だった。いや、やはり、通称だったかもしれない。
実は、「ナベツネ」は、あの「ミヤケン」(上掲写真)になりそこねたのである。「ミヤケン」こと宮本顕治は、元日本共産党議長。やはり、「ミヤケンさんが」と敬愛を込めて語られるという場面は、ちょっと想像できない、日共の独裁的指導者だった。そして、もしかすると、「ナベツネ」は「ミヤケン」の後を継いで、日本共産党委員長「ナベツネ」となり、「代々木のドン」と呼ばれていたかもしれない。
昭和21年(1946年)、「ナベツネ」こと渡邉恒雄は、東大新人会を率い、日本共産党東大細胞のキャップであった(今日流にいえば、日本共産党東大支部長ですね)。その青年時代から、「ナベツネ」は「ナベツネ」と呼ばれていた。その前に、敗戦直後の昭和21年当時、日本共産党員にして、東大細胞のキャップがどういう立場だったか。今日では、ちょっと想像できないかもしれない。
ある意味では、現在の85歳「ナベツネ」より、当時の21歳「ナベツネ」のほうが、エラかった。東大細胞のキャップは、全国の学生運動の、というより、日本の大学生の頂点だった。それくらい、当時は、マルクス主義全盛、ソ連は労働者の祖国、スターリンは比類なき世界の指導者、日本共産党は輝ける前衛党、「空想から科学へ」、資本主義から共産主義への未来は科学的な必然であり、日本は「革命前夜」であった。
今日からみれば、理解に苦しむばかりだが、その時代にあって、「ナベツネ」の名は全国に轟いていた。現在のような悪名としてではなく。「ナベツネ」が一声かければ、東大の学生だけでなく、全国の学生数千人が馳せ参じるのである。1947年に起きた「吉田内閣打倒」を掲げる日本初のゼネラルストライキである二・一ゼネストでは、学生代表として「ナベツネ」は演説しているくらいだ。
ところが、「ナベツネ」は、その後、大躍進することになる日本共産党の幹部をめざさなかった。翌22年、「ナベツネ一派」は、日本共産党中央指導部を批判して、除名処分になっている。このあたりは、ややこしい日共の路線問題の確執があり、その背景には戦後思潮の転換などがあるわけだが、解説するのは私には荷が重いし、あまり興味もない。一言でいうと、「ナベツネ」は社会民主主義に接近し、反スターリニズムに傾いていた。
それからの「ナベツネ」は、ご存じのとおり、読売新聞に入社して、「将来は社長になる」と広言する政治部記者になり、自民党保守政治家に食い込んで頭角を顕わしていくのだが、東大の学生時代から、新聞記者時代を通じて、日本共産党の同志や学生仲間たち、読売の同僚たちからも、ずっと、陰では「ナベツネ」と呼ばれ続けてきた。やっぱり、若い頃から傲岸不遜で嫌なやつだったらしい。
徳望に欠けたにもかかわらず、現在の「ナベツネ」になったのだから、その辣腕を認めないわけにはいかない。「ナベツネ」と陰口を叩くところからすでに負けているのである。学生時代からは、180度変わっているはずなのに、「ナベツネ」に思想的な「転向」にともなう、懊悩といったものはうかがえない。「ナベツネ」はつねに権力を望んだだけにみえる。
日本共産党員時代も、人民に権力を、ではなく、俺に権力を、そんな風に思える。そこが逆に「ナベツネ」の強さに思えるが、そんなありきたりな「ナベツネ」分析はどうでもよくて、本題はここからだ。いや、すぐに終わります。つまり、「ナベツネ」は、戦後の左翼学生の軌跡に先んじていた。60年安保のブント、70年の全共闘、「挫折」して企業社会に組み込まれ「社畜」となる戦後世代の大先輩であり、そして「勝ち組」であると。
だから、マスコミに入るような人間は、どこか「ナベツネ」に萎縮し、畏怖して批判ができない。「ナベツネ」も気持ちよく彼らを「小僧」扱いできる。心の底では、もう少し人望のある「ナベツネ」になら、実は「小僧」もなりたかった。そういう、ある予定調和と劣情のうえに、「ナベツネ」が君臨してきたわけ。「ナベツネ」が悪いというより、「ナベツネ」を許すという形で、保身に走ってきた団塊の世代までが悪いのだ、というお粗末。
(敬称略:だから結局、「ナベツネ」は愛称なのである。「ナベツネ」に投影される自己愛の別称なのだ)
ナベサダは元気かしら。
代々木系、反代々木系といっても程度の問題ですが、やはり代々木系の人たちの方が、裏から権力の階段を登り詰めようという意志を感じました、その後転向した時もやっぱり代々木系の人たちの方がどうもアクが強い。
ナベツネっていうのはそういう転向の記号だったんですね、いや、勉強になりました。
>やはり代々木系の人たちの方が、裏から権力の階段を登り詰めようという意志を感じました、その後転向した時もやっぱり代々木系の人たちの方がどうもアクが強い。
数え上げると、数え上げられないくらいの「ナベツネ」がいました。徳間康快とか、堤清二とか、この「ナベツネ」たちのネットワークのおかげもあって、さらに「ナベツネ」は強大に見えたわけです。左翼も親分子分的な絆を踏襲していますから。
>ナベツネっていうのはそういう転向の記号だったんですね、いや、勉強になりました。
そうなんです。一言でいうと、そうなんです。そう書けばよかったな。こちらこそ、勉強になりました。
「ミヤケン一派」→「ナベツネ一派」とか、間違いを直し、少し書き換えました。