内田 樹 ミシマ社
ゲッツ板谷の『BESTっス!』(小学館)と一緒に購入。
以前にも書いたが、この2人のライターはいまのところはずれなし。
ともに、肉体派(内田の場合は、身体派か)にして、地元の友だちと遊んでいるのがいちばん楽しいという長屋派。内田の「金なら貸すぞ」に対して、ゲッツは「得することばかり考えているやつは嫌い」と、どこか似ている。
さて、<街場>とは「プロ」や「専門家」の偏向から逃れたいという意味らしい。具体的には、神戸女学院の大学院のゼミ研究のテーマとして現代中国論を立ち上げ、社会人聴講生を交えて議論する場をつくった。専門家がいない街場をプラットフォームにして、日中間のトピックという列車や電車を引き入れては、その出発地や到着地を調べ、それぞれの乗客たちを近寄って眺めたり、ときには声をかけてみようという試みだろう。
中国について論じる学者やジャーナリスト、評論家、事情通たちは、それぞれの欲望(利害や願望など)から、親中であれ反中であれ、必ず偏向(情報の評価を誤ること)する。
たとえば、親中派は多くの矛盾を抱えるがゆえに中国の可能性を見い出し、中国共産党の統治能力を過大に高く評価し、やがて、東アジアにおいては日本の兄弟となることを願い、国際社会においてはアメリカを牽制する存在感を持つことを期待する。
反中派は多くの矛盾を抱えるがゆえに中国に不可能性を見い出し、中国共産党の統治能力をことさら低く評価し、やがて、東アジアにおいては日本の強大な敵となることは不可避とし、国際社会においてはアメリカと覇権を争う存在感を持つとして恐怖する。
親中派と反中派のいずれもが、中国はまだ弱いという認識では共通しながら、いずれは頼もしい味方、あるいは強大な敵になると飛躍する。どちらも、中国が大変だ、だから日本も大変なことになるという事大主義になりがちだ。中国はまだ弱く、したがって将来も弱いままだから気にする必要はない、という中国論を聞かない。
「それが彼らの商売だ」とするだけでは、ただの思考停止に過ぎない(It is not my buisness が「私は無関係だ」と訳されるように)。
親中派と反中派が、希望的な観測と最悪の予測という違いはあっても、結論が先にありきだとしたら、その根拠となるデータや情報も偏っているはずだから、足して2で割るくらいがちょうどよい。その程度のメディアリテラシーは誰でも多少は心得ている。
問題は、足して2で割れるほどの厚みや膨らみがある議論なのかどうかだ。
それは新聞をはじめとするメディアが日々垂れ流す、自民党と民主党との政争の局面を報じる政局報道とよく似ている。そこでは、この間の政策論や政党論などはもちろん、あれほど顕著な有意性を示した先の参院選の投票行動についてさえ、掘り下げられて論じられた形跡はない。メディアと民主党と自民党、それぞれの分析や総括はほとんど同工異曲だった。選挙民は、まるで「消えない年金」や「地方の再生」や「バンソーコが似合う大臣」を選択したかのようだ。
親中派と反中派の対立を「読む」と、両者の議論の枠組みや視点はよく似ているのに気づく。日米中3国の国際関係論的な枠組みがまず示され、日本は米中の綱引きに翻弄される受動的な存在に過ぎないとされ、親中派も反中派も日本の没主体的な姿勢に歯がみをする。
中国の反日運動についても、官製の反日運動か、ねじれた反政府運動か、あるいはその混交か、いくつかの見方は示されたが、反日運動に参加した中国人たちの不満の内容や具体的な要求についてはほとんど報じられず、また、いったい日本と日本人のどのような言動が中国の反日運動に影響したのか、その反日の経緯を報じた記事や評論も見当たらなかった。
やはり、足して2で割れないのだ。
つまり、何が語られたか、語られているかでは、いっかなわからないわけだ。では、何が語られていないかを問題としよう。本書のリテラシーについての考え方を俺はそう読んだ。
何が語られていないかを考えるために、本書が示した方法はとくに変わったものではない。その方法とは、いったん日本人であることを「」に入れて、同時に「」付きの中国人になってみるという試みだ。相手になった気で考えてみようというわけだが、その前段階として自らを「日本人」として棚上げしなければならないところが肝だろう。「」をいわゆると置換すれば、それだけで日本人としての自明性を疑わせる視野の広がりを得ることができる。
本書がいうリテラシーとは、専門家の「欲望」と同様な「欲望」を私たち自身も抱えているから、「人の振り見て我が振り直せ」と絶えず自分の読みかたを疑えという勧めであるようだ。他人を疑えば、世間という前景は狭くなる。自分を疑えば、広がっていくはずだ。恩讐や愛憎を越えた人と人のつきあいかたの可能性について、地政学的、文化的隣国である中国を題材にして説いているようにも読める。
「中国人」や「日本人」とは、ただいま現在生きている、胡さんや橋本さんだけを指すものではない。「いわゆる」というプラットフォームに立てば、過去と未来に、日本や中国に、双方に跨った歴史的存在として、大陸と列島の人々が見えてこないかという問いだろう。したがって、本書では、大学院のゼミという教育機会の強みを生かし、日中の地政学的関係や長きに渡る交流に視座を戻したり、やがては個々の中国人に出会えるような社会心理的な分析に進んだりする。
私たちもまた列車に乗っている。誰が買ったかはわからないが、自分で買ったものではないことだけはたしかな切符を持って、どこから乗ってどこまで来たか、そしてどこまで行くのかわからない列車の座席にいる。車窓を流れるのは、見たような、見たことがないような風景だ。ただ、トンネルに入ったり雨が降ったときなどに、窓ガラスに映った自分らしき顔を束の間見ることはできる。ところが、その顔には見覚えがない。
次のプラットフォームが見えたら、降りてみよう。誰が運転しているかわからないが、もしかしたら自分が動かしているのかもしれない。降りてみたとき、どんな景色が見え、どんな人たちが居合わせるのか。少なくとも、プラットフォームを渡る風はずっと気持ちがいいはずだ。
ゲッツ板谷の『BESTっス!』(小学館)と一緒に購入。
以前にも書いたが、この2人のライターはいまのところはずれなし。
ともに、肉体派(内田の場合は、身体派か)にして、地元の友だちと遊んでいるのがいちばん楽しいという長屋派。内田の「金なら貸すぞ」に対して、ゲッツは「得することばかり考えているやつは嫌い」と、どこか似ている。
さて、<街場>とは「プロ」や「専門家」の偏向から逃れたいという意味らしい。具体的には、神戸女学院の大学院のゼミ研究のテーマとして現代中国論を立ち上げ、社会人聴講生を交えて議論する場をつくった。専門家がいない街場をプラットフォームにして、日中間のトピックという列車や電車を引き入れては、その出発地や到着地を調べ、それぞれの乗客たちを近寄って眺めたり、ときには声をかけてみようという試みだろう。
中国について論じる学者やジャーナリスト、評論家、事情通たちは、それぞれの欲望(利害や願望など)から、親中であれ反中であれ、必ず偏向(情報の評価を誤ること)する。
たとえば、親中派は多くの矛盾を抱えるがゆえに中国の可能性を見い出し、中国共産党の統治能力を過大に高く評価し、やがて、東アジアにおいては日本の兄弟となることを願い、国際社会においてはアメリカを牽制する存在感を持つことを期待する。
反中派は多くの矛盾を抱えるがゆえに中国に不可能性を見い出し、中国共産党の統治能力をことさら低く評価し、やがて、東アジアにおいては日本の強大な敵となることは不可避とし、国際社会においてはアメリカと覇権を争う存在感を持つとして恐怖する。
親中派と反中派のいずれもが、中国はまだ弱いという認識では共通しながら、いずれは頼もしい味方、あるいは強大な敵になると飛躍する。どちらも、中国が大変だ、だから日本も大変なことになるという事大主義になりがちだ。中国はまだ弱く、したがって将来も弱いままだから気にする必要はない、という中国論を聞かない。
「それが彼らの商売だ」とするだけでは、ただの思考停止に過ぎない(It is not my buisness が「私は無関係だ」と訳されるように)。
親中派と反中派が、希望的な観測と最悪の予測という違いはあっても、結論が先にありきだとしたら、その根拠となるデータや情報も偏っているはずだから、足して2で割るくらいがちょうどよい。その程度のメディアリテラシーは誰でも多少は心得ている。
問題は、足して2で割れるほどの厚みや膨らみがある議論なのかどうかだ。
それは新聞をはじめとするメディアが日々垂れ流す、自民党と民主党との政争の局面を報じる政局報道とよく似ている。そこでは、この間の政策論や政党論などはもちろん、あれほど顕著な有意性を示した先の参院選の投票行動についてさえ、掘り下げられて論じられた形跡はない。メディアと民主党と自民党、それぞれの分析や総括はほとんど同工異曲だった。選挙民は、まるで「消えない年金」や「地方の再生」や「バンソーコが似合う大臣」を選択したかのようだ。
親中派と反中派の対立を「読む」と、両者の議論の枠組みや視点はよく似ているのに気づく。日米中3国の国際関係論的な枠組みがまず示され、日本は米中の綱引きに翻弄される受動的な存在に過ぎないとされ、親中派も反中派も日本の没主体的な姿勢に歯がみをする。
中国の反日運動についても、官製の反日運動か、ねじれた反政府運動か、あるいはその混交か、いくつかの見方は示されたが、反日運動に参加した中国人たちの不満の内容や具体的な要求についてはほとんど報じられず、また、いったい日本と日本人のどのような言動が中国の反日運動に影響したのか、その反日の経緯を報じた記事や評論も見当たらなかった。
やはり、足して2で割れないのだ。
つまり、何が語られたか、語られているかでは、いっかなわからないわけだ。では、何が語られていないかを問題としよう。本書のリテラシーについての考え方を俺はそう読んだ。
何が語られていないかを考えるために、本書が示した方法はとくに変わったものではない。その方法とは、いったん日本人であることを「」に入れて、同時に「」付きの中国人になってみるという試みだ。相手になった気で考えてみようというわけだが、その前段階として自らを「日本人」として棚上げしなければならないところが肝だろう。「」をいわゆると置換すれば、それだけで日本人としての自明性を疑わせる視野の広がりを得ることができる。
本書がいうリテラシーとは、専門家の「欲望」と同様な「欲望」を私たち自身も抱えているから、「人の振り見て我が振り直せ」と絶えず自分の読みかたを疑えという勧めであるようだ。他人を疑えば、世間という前景は狭くなる。自分を疑えば、広がっていくはずだ。恩讐や愛憎を越えた人と人のつきあいかたの可能性について、地政学的、文化的隣国である中国を題材にして説いているようにも読める。
「中国人」や「日本人」とは、ただいま現在生きている、胡さんや橋本さんだけを指すものではない。「いわゆる」というプラットフォームに立てば、過去と未来に、日本や中国に、双方に跨った歴史的存在として、大陸と列島の人々が見えてこないかという問いだろう。したがって、本書では、大学院のゼミという教育機会の強みを生かし、日中の地政学的関係や長きに渡る交流に視座を戻したり、やがては個々の中国人に出会えるような社会心理的な分析に進んだりする。
私たちもまた列車に乗っている。誰が買ったかはわからないが、自分で買ったものではないことだけはたしかな切符を持って、どこから乗ってどこまで来たか、そしてどこまで行くのかわからない列車の座席にいる。車窓を流れるのは、見たような、見たことがないような風景だ。ただ、トンネルに入ったり雨が降ったときなどに、窓ガラスに映った自分らしき顔を束の間見ることはできる。ところが、その顔には見覚えがない。
次のプラットフォームが見えたら、降りてみよう。誰が運転しているかわからないが、もしかしたら自分が動かしているのかもしれない。降りてみたとき、どんな景色が見え、どんな人たちが居合わせるのか。少なくとも、プラットフォームを渡る風はずっと気持ちがいいはずだ。
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