山田洋次は助平だなあ。
新之丞の世話を焼くために甲斐甲斐しく働く若妻・加世の肢体を執拗に追うカメラ。その立ち座り、屈み伸ばす所作ごとに、襟足や二の腕、踝が見え隠れする着物姿には、清楚でありながら、たしかな官能が色づいている。
女の暮らしのなかの身体運用に美と性を見出すだけではすまず、レイプされたことを暗示させるように、カメラはその円い腰部に寄っていく。レイプの後先に関わらず、女は美しいといいたいなら、反動である。子どもと一緒に観るのは考えものだと思ったくらい、視姦めいたカメラだ。
記憶では、『隠し剣 鬼の爪』でも、親友の妻が上司に手籠(レイプ)されたことが、主人公の武士の一分を起動させた。
片田舎の貧乏武士にとって、身の回りの妻や女だけが空虚な人生に射し込んだ一筋の色彩であり、その貞操が汚されたときにだけ、決然と抜刀するという、まことに反武士道的な時代劇を山田洋次は意図したのかもしれない。
あるいは、山田洋次という映画監督は、その寅さん映画を含めて、ひたすら母性的な女性像を追い求めてきたのかもしれない。寅のあり得ない恋愛遍歴にリアリティがあるのは、さくらがいる限り、寅に女は必要ないなと誰しもが納得しているからである。
寅にとって、さくらは理想的な女性像であり、同時に現実には妹であり、実質的には女房であるがゆえに、他の女に真実心を寄せることはない。つまり、寅はマドンナをセックスの対象(もちろん広義の意味において)としか見ていないのであるが、いざ相手から好意を示されると、にわかに禁欲になるか不能になる。さくらに対して後ろめたいからだ。
そうした寅の煩悶が、たいていは女房である女性観客と、たいていは小心な浮気者である男性観客に安心感を与え、ホームドラマとして成り立たせているのだ。寅がときにちゃぶ台をひっくり返すのは、とら屋という家族や家庭から疎外されたと怒ったからではなく、さくらから男として疎外され続けることで居場所がない苛立ちからである。
「大丈夫? お兄ちゃん」と柴又駅に追いかけてきたさくらに、春風に吹かれたような笑顔で、「泣くんじゃねえ。大丈夫だよ、お兄ちゃんは」と寅がいうとき、その報われないシラノ的な悲恋はあらかじめ完結している。
そして性的に抑圧された寅は、ここではないどこかに俺を待っている女がいるはずだと、ドンキホーテ的な突進をマドンナたちに繰り返し、奮闘空しく敗れ去るという予定調和の物語に自らの体面を賭け続ける。
そうした高潔かつ卑小な男の内面の葛藤を描いて、寅さん映画は普遍的な物語たり得たのだが、山田洋次のここ一連の時代劇映画に登場する武士には、武士道という規範を主題とするがゆえに、寅のように破滅的な均衡を内面に抱えない。
夫婦の愛情物語なので、とら屋のように家族や周囲との摩擦もない。魅力的な庄内弁を標準語に置換してみれば、実は少しもローカルではない。主家と家来の権力関係もはるかに後景に退いているので、時代劇ですらないのかもしれない。
あるいは、無いものねだりか。山田洋次は、カンヌやベネチアで賞を獲得できるような、無国籍な「サムライ」ファンタジーをつくりたかったと考えることもできる。だから、レイプ犯に起動する武士道といった、忠義とは無縁の珍妙な時代劇をつくってしまったのかもしれない。
そう考えると、この映画のシンプルな印象とは、山田洋次の単純な欲望によるものだといえるのかもしれない。
というわけで、見せ場は若妻を演じた檀れいの美しい立ち振る舞いしかない、きわめてスケールの小さな映画だが、木村拓哉は好演、笹野高史は絶品、そして桃井かおりが見事な「一人芝居」(皮肉である)を見せてくれる。
「東芝日曜劇場」で放映されたなら絶賛したいが、映画としてはまるでもの足らない。芸術には毒が必要だとよくいわれる。檀れいの尻に寄るカメラはたしかに目の毒ではあるが、ただの汚れた欲望の視線のように思える。
汚れたとは、倫理的な物差しからではなく、手垢の付いたという意味である。しかし、皮肉なことにその山田洋次の汚れた視線だけが、この映画で唯一の映画的なリアリティを感じさせたのだった。
新之丞の世話を焼くために甲斐甲斐しく働く若妻・加世の肢体を執拗に追うカメラ。その立ち座り、屈み伸ばす所作ごとに、襟足や二の腕、踝が見え隠れする着物姿には、清楚でありながら、たしかな官能が色づいている。
女の暮らしのなかの身体運用に美と性を見出すだけではすまず、レイプされたことを暗示させるように、カメラはその円い腰部に寄っていく。レイプの後先に関わらず、女は美しいといいたいなら、反動である。子どもと一緒に観るのは考えものだと思ったくらい、視姦めいたカメラだ。
記憶では、『隠し剣 鬼の爪』でも、親友の妻が上司に手籠(レイプ)されたことが、主人公の武士の一分を起動させた。
片田舎の貧乏武士にとって、身の回りの妻や女だけが空虚な人生に射し込んだ一筋の色彩であり、その貞操が汚されたときにだけ、決然と抜刀するという、まことに反武士道的な時代劇を山田洋次は意図したのかもしれない。
あるいは、山田洋次という映画監督は、その寅さん映画を含めて、ひたすら母性的な女性像を追い求めてきたのかもしれない。寅のあり得ない恋愛遍歴にリアリティがあるのは、さくらがいる限り、寅に女は必要ないなと誰しもが納得しているからである。
寅にとって、さくらは理想的な女性像であり、同時に現実には妹であり、実質的には女房であるがゆえに、他の女に真実心を寄せることはない。つまり、寅はマドンナをセックスの対象(もちろん広義の意味において)としか見ていないのであるが、いざ相手から好意を示されると、にわかに禁欲になるか不能になる。さくらに対して後ろめたいからだ。
そうした寅の煩悶が、たいていは女房である女性観客と、たいていは小心な浮気者である男性観客に安心感を与え、ホームドラマとして成り立たせているのだ。寅がときにちゃぶ台をひっくり返すのは、とら屋という家族や家庭から疎外されたと怒ったからではなく、さくらから男として疎外され続けることで居場所がない苛立ちからである。
「大丈夫? お兄ちゃん」と柴又駅に追いかけてきたさくらに、春風に吹かれたような笑顔で、「泣くんじゃねえ。大丈夫だよ、お兄ちゃんは」と寅がいうとき、その報われないシラノ的な悲恋はあらかじめ完結している。
そして性的に抑圧された寅は、ここではないどこかに俺を待っている女がいるはずだと、ドンキホーテ的な突進をマドンナたちに繰り返し、奮闘空しく敗れ去るという予定調和の物語に自らの体面を賭け続ける。
そうした高潔かつ卑小な男の内面の葛藤を描いて、寅さん映画は普遍的な物語たり得たのだが、山田洋次のここ一連の時代劇映画に登場する武士には、武士道という規範を主題とするがゆえに、寅のように破滅的な均衡を内面に抱えない。
夫婦の愛情物語なので、とら屋のように家族や周囲との摩擦もない。魅力的な庄内弁を標準語に置換してみれば、実は少しもローカルではない。主家と家来の権力関係もはるかに後景に退いているので、時代劇ですらないのかもしれない。
あるいは、無いものねだりか。山田洋次は、カンヌやベネチアで賞を獲得できるような、無国籍な「サムライ」ファンタジーをつくりたかったと考えることもできる。だから、レイプ犯に起動する武士道といった、忠義とは無縁の珍妙な時代劇をつくってしまったのかもしれない。
そう考えると、この映画のシンプルな印象とは、山田洋次の単純な欲望によるものだといえるのかもしれない。
というわけで、見せ場は若妻を演じた檀れいの美しい立ち振る舞いしかない、きわめてスケールの小さな映画だが、木村拓哉は好演、笹野高史は絶品、そして桃井かおりが見事な「一人芝居」(皮肉である)を見せてくれる。
「東芝日曜劇場」で放映されたなら絶賛したいが、映画としてはまるでもの足らない。芸術には毒が必要だとよくいわれる。檀れいの尻に寄るカメラはたしかに目の毒ではあるが、ただの汚れた欲望の視線のように思える。
汚れたとは、倫理的な物差しからではなく、手垢の付いたという意味である。しかし、皮肉なことにその山田洋次の汚れた視線だけが、この映画で唯一の映画的なリアリティを感じさせたのだった。
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