「言論の自由」というから、しゃっちょこばる。「何を言おうと俺の勝手」と言い換えれば、もっと自由になれるし、責任の在処をきちんと問える。
『偏屈老人の銀幕茫々』(石堂淑朗 筑摩書房)
を読んでいてニヤリとした箇所。
高校生の頃から、76歳の現在まで、クラシック党を任じてきた石堂淑朗は、最近ではリヒャルト・シュトラウスにはまっているらしい。
「(リヒャルト・シュトラウスは)やはりナチスドイツ時代にヒトラーと喧嘩しつつもチャンと活躍していたことで戦後何となく敬遠されているのであった。私はナチスにさして反感は持っていないから逆に不満である」
こういうことをさらりといえるところが、石堂淑朗らしい。脳梗塞で左半身が不自由のうえに、狭心症で死に損なった老人だからこそ得た「言論の自由」、つまり「何を言おうと俺の勝手」なのかもしれない。
石堂のような境地に達せないならば、「言論の自由」とはあくまで政治制度と考え、国家権力の介入にだけ反対するにとどめ、個人間に使うことは控えるべきだと思う。「言論の自由」云々と事挙げしたくなったら、「何を言おうと俺の勝手」と言い換えてみて、自らの覚悟と許容範囲を問うてみたらよい。
(敬称略)
『偏屈老人の銀幕茫々』(石堂淑朗 筑摩書房)
を読んでいてニヤリとした箇所。
高校生の頃から、76歳の現在まで、クラシック党を任じてきた石堂淑朗は、最近ではリヒャルト・シュトラウスにはまっているらしい。
「(リヒャルト・シュトラウスは)やはりナチスドイツ時代にヒトラーと喧嘩しつつもチャンと活躍していたことで戦後何となく敬遠されているのであった。私はナチスにさして反感は持っていないから逆に不満である」
こういうことをさらりといえるところが、石堂淑朗らしい。脳梗塞で左半身が不自由のうえに、狭心症で死に損なった老人だからこそ得た「言論の自由」、つまり「何を言おうと俺の勝手」なのかもしれない。
石堂のような境地に達せないならば、「言論の自由」とはあくまで政治制度と考え、国家権力の介入にだけ反対するにとどめ、個人間に使うことは控えるべきだと思う。「言論の自由」云々と事挙げしたくなったら、「何を言おうと俺の勝手」と言い換えてみて、自らの覚悟と許容範囲を問うてみたらよい。
(敬称略)
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