コタツ評論

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一億三千万人のための小説教室

2009-04-30 13:28:00 | ブックオフ本
タイトルを書き写すのからして恥ずかしいが、一億三千万人に必携の名著です。

『一億三千万人のための 小説教室』(高橋 源一郎 岩波新書)

2001年、高橋源一郎がNHKの「ようこそ先輩」 という番組に出演して、母校である船橋小学校の小学校6年生に、「小説の書き方」を教えた授業を元にしています。どこまで番組内容に忠実なのかわかりませんが、たしかに小学生に語りかけるように書いていて、誰でも易しく読めます。

レッスン1は<小学生のための小説教室>です。つまり、著者は、一億三千万人を小学生扱いにしています。どうして私たちは小学生なのでしょうか。一億三千万人のほとんどが、著者の言う「小説以前の、小説のようなもの」しか読んだことがなく、ましてや自分で小説を書いたことはもちろん、書こうと思ったことさえないことは間違いないからです。四十年間、毎日のように小説を読み続け、小説を書いてきた著者が、私たちを小学生扱いにするのは一理あります。

それでも、一読して、これは平成の「綴り方教室」であると、エログロナンセンスを厭わぬ例文を差し替えて教育現場に導入しよう、と思う向きもあるかもしれません。でも、それはお門違いというものです。著者によれば、ちょっと手引きすれば、わずか3回の授業で小学校6年生はすぐに小説が書けたのに、私たち大人は書けないのです。

どうして私たちは小説を書けないのでしょうか? 小説を書く必要がないからです。それをいえば、小説を読む必要もありません。ただ、「小説家」にはちょっと憧れるところがあるかもしれない。

「とにかく、小説というものを書いてみて、ちょっと誉められて、あわよくば、どこかの新人賞でもとってデビューできれば御の字」だと。

「映画監督」や「プロ野球監督」「指揮者」には、そう簡単になれそうにはないけれど、「小説家」には何かの拍子にひょいとなれそうな気がします。原宿を歩いていたら、芸能プロのスカウトに声をかけられ、あれよあれよというまにアイドルになっていたというような。だって、あれくらいの「小説」なら、誰にだって書けそうな気がするじゃないですか(実は書けないのですが、あれくらいでも)。

著者の書棚には、「小説の書き方」「小説教室」といった類の本が50冊以上もあるそうです。でも、「小説の書き方」や「小説教室」を読んで小説家になった人はひとりもいない、と著者は断言します。じゃ、この本は何なんだ、といいたくなりますが、この本は「小説家」になるための本ではなく、小説を書くための本なのですね。「小説の書き方」や「小説教室」を読んで小説家になった人がいない理由を、

a)その本を書いた人は、ほんとうは「小説の書き方」を知らないから
b)その本を書いた人は、「小説の書き方」を知ってはいるが、教え方がわからないから


と著者は推測します。なるほど、「小説の書き方」と「教え方」の両方を知っているのは、この高橋だけだといいたいわけかと鼻白んでいると、別の答えが用意されています。

C)小説家は、小説の書き方を、ひとりで見つけるしかないから

やっぱり、じゃこの本は何なんだ、といいたくなりますね。また、著者は読者を篩い分けしているようです。小説家になりたい人と小説を書きたい人に。でも、タイトルは、洩れなく「一億三千万人のための小説教室」です。

昨夜、CATVで「銀河ヒッチハイクガイド」というイギリス映画を放映していました。眠かったので、冒頭でイルカが「いつも魚をありがとう~♪」と歌うところから、地球が滅亡して主人公が銀河ヒッチハイクに出かけるまでしか観ていませんが、おもしろそうでした。

主人公はガールフレンドから、マダガスカルに行こうと誘われ、コンウォールくらい(東京と奥多摩くらいの位置関係か)にしようと尻込みするような、気弱で億劫がりなのに、銀河ヒッチハイクに旅立つ羽目になります。しかたがありません。もう地球はないのですから。

この本も少し似ています。私たちを言葉の宇宙に連れ出す「小説ヒッチハイクガイド」のようです。地球を失って銀河ヒッチハイカーになったように、過去の小説ではなく、これから「私」が書く未来の「小説」に続く旅のガイドです。この本の中でも、小説を星雲に喩えています。その星雲には「小説以前の、小説のようなもの」も含まれているそうです。

 小説というものは、たとえば、広大な平原にぽつんと浮かぶ小さな集落から抜け出す少年、のようなものではないでしょうか。
 そこがどれほど居心地のいい場所であっても、見晴らしのいい、小高い丘に座って、遙か遠くの地平線あたりを眺めていると、なんだか、からだの奥底からつき動かされるような衝動にかられる。それは、ここではないどこか、へ行きたいという衝動です。
 やがて少年は、その集落を、夜中に、ひとりこっそり出ていきます。そして、新しい集落を、その広大な平原のどこかに作る。だが、やがて時がたつと、また新しい少年がその集落から、深夜にそっと、彼の勇敢な先祖がそうであったように、抜け出してゆくのです。

 ミラン・クンデラという小説家は、こういうことをいっています。
「人間の限界とは言葉の限界であり、それは文学の限界そのものなのだ」

 いまそこにある小説は、わたしたち人間の限界を描いています。しかし、これから書かれる新しい小説は、その限界の向こうにいる人間を描くでしょう。
 小説を書く、ということは、その向こうに行きたい、という人間の願いの中にその根拠を持っている、わたしはそう思っています。

 それは人間の「本能」ではないか、その「本能」に根ざして、文学が産まれ小説が生まれた、あなただけの言葉の道をいまから見つけてください。そういうことのようです。

その人だけの道を見つけていると著者が挙げた例文が凄いです。以下は、その一部です。

『うわさのベーコン』(猫田道子 太田出版)
『エーミールと探偵たち』(エーリヒ・ケストナー 岩波書店)
『わたしの生涯』(ヘレン・ケラー 岩波文庫)
『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治 岩波文庫)


『うわさのベーコン』を除けば、ここまではなるほどです。しかし、以下はどうでしょうか。

『ますます賢く』(武者小路実篤全集第十七巻 小学館)
『AV女優』(永沢光雄 文春文庫)
『平壌ハイ』(石丸元章 飛鳥新社)
『フィネガンズ・ウェイク ⅠⅡ』(ジェイムズ・ジョイス 河出書房新社)
『セックス障害者たち』(バクシーシ山下 幻冬舎文庫)
『桃尻語訳 枕草子 下』(橋本治 河出書房新社)
『たまもの』(神蔵美子 筑摩書房)
『ゴダール 映画史 Ⅰ』(ジャン・リュック・ゴダール 筑摩書房)


とても、NHK「ようこそ先輩」で小学6年生に紹介したとは思えません。一億三千万人の読み手にもどうかと思えますが、著者には、一億三千万人の書き手が見えていることはたしかなようです。

と、ここで終わるべきだし、そのつもりでいましたが、こうした「文集」を読むたびに、何か引っかかるものがあるのです。この本で紹介されている『うわさのベーコン』(猫田道子 太田出版)所収の小文を読んだときから、徐々に意識の表面に上がってきました。この小文は、いっとう最初に、「少し長いまえがき」の最後に紹介されます。

 最後に、一つだけ、ある「小説」の文章を引用して、この、いささか長すぎるまえがきを終わりたいと思います。

 全然関係ない話だけれど、TVのアナウンサーが「~~したいと思います」を連発するのは、こういう一種の書き言葉へのコンプレックスだったのかと肯きました。

 わたしは、いま、机の上にその小説を置き、仕事につまると、その本の頁をそっと開くのが習慣になっています。

いま、というのはいつでしょう。NHK「ようこそ先輩」の放送は2001年、この本の刊行は2002年。187頁、引用をはずせば100頁を書くのに、長い時間をかけて苦心したことがうかがえます。

 正確にいうなら、それは、小説ではありません。「限界を超えること」を本能として持っている小説だって、まだ、そこまでは行けない。いや、もしかしたら、永遠にその壁を超えることができないかもしれない。だから、それは小説ではないともいえます。

この本には、小説の引用だけでなく、詩や写真の解説やエッセイや歌集のあとがきといった、ふつう小説とは呼ばれない文章が多く紹介されています。著者がここで「小説ではない」といっているのは、もちろん「小説」以外ということではなく、「小説以前の、小説のようなもの」をもじれば、「小説以後の、小説のようなもの」を考えているからだと思います。前後は時間ではなく、手前とその先です。

 なぜ、それが小説ではないのか。
 それは読んでもらえばわかります。作者の精神のチューニングが、ほんの少し、ずれているように見えるからです。
 精神のチューニングがずれている(と思える)人たちの作品をいくつも読んだことがあります。その作品と、わたしたちの間には、大きな壁があって、理解することは不可能だ、と、私は思ったのでした。


「不可能だ、と、私は」とは、珍しい句読点の使い方をしますね。人気推理作家の西村京太郎もやたら句読点を打つので有名です。句読点とは、この人たちにとって吐く息なんでしょうか、吸う息なんでしょうか。ずれているように見えるとは、動いている歩いているからかもしれません。

 精神のチューニングがずれているふりをしている人たちの作品も読んだことがあります。そして、それはもう、とうてい読むにたえない代物ばかりでした。

ここでダメ押しされるようにして、私は酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文を想い出しました。あれは、「理解不可能」や「読むにたえない代物」どころか、少年が書いたとはとても思えない、きわめて明晰な文章でした。郊外の建て売り住宅のリビングルームやシステムキッチンから、マイカーや自転車で出かけるファミレスやコンビニ、TVゲームやインターネットに溢れた個室など、現代日本の都市生活の空虚さを、「汚い野菜」という一言で見事に表現し切ったのには驚きました。

 では、精神のチューニングがほんの少しずれている、というのはどういう状態なのでしょうか。それは、わたしにもよくわかりません。だが、その世界が、わたしたちが「人間」と呼び習わしている世界のすぐそばにあること、そして、同時に無限に遠いようにも思えることは事実です。
 わけがわからない、と切り捨てないでください。
 ヘン、の一言で片付けないでください。
 なぜなら、この作品は、この作者の前に、この作者のためにだけ続いているたった一本の道の果てに書かれた小説だからです。

酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文に比べれば、猫田道子の『うわさのベーコン』からの引用文は、当時、酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文がそう評されたように、とても稚拙といえます。いったい、このコメンテーターたちは、日本語が読めるのだろうかと、当時、首を捻りました。

そういう小説は、みんな、よく似ている。
 みんな、少し哀しく、孤独で、かたくなで、近寄りがたく、ただ自分の前だけをじっと見つめている。


あの事件に衝撃を受けた学校の先生は私の周囲だけでも何人もいました。もちろん、まず事件が残虐だったからですが、それ以上に、あれほどの感受性の持ち主が、という驚愕があったようです。反射的に、学校と社会がどれほど惨い状態にあるのか、そのことをあらためて思い知ったショックが、勝っていたように思えました。

 その一本の道が、ある、途轍もない奇蹟によって、やがて、突然、人々の住む広大な土地に達することがあります。それを、わたしたちは、習慣によって「傑作」とか「芸術」と呼んでいます。しかし、それが、稀なる出来事であることを、わたしたちは忘れてはならないのです。
 ほとんどの、一本の道は、結局、他のどの道と交わることもなく、広い場所にたどり着くこともなく、どこかへ消え去り、その道を歩いていった作者もまた忘れ去られる。それは仕方のないことです。


著者は、猫田道子の『うわさのベーコン』を「傑作」や「芸術」とは、いいません。カッコに入っていますから、また「習慣によって」と留保してることからも、「傑作」や「芸術」を醒めた眼で見ていることがわかります。私たち小学生にだって、そんなことは関係ありません。

 そして、わたしは、この作者が、遠く彼方を目指したために罰せられたのではないか、この作品は、人間という、この傲慢な(おそれを知らぬ)存在に、神が下した罰の徴(しるし)ではないかとさえ思うのです。

やはり、あの犯行声明文が甦ってきます。引用してほしかったくらいです。酒鬼薔薇聖斗には、犯行声明文ではなく、ほんとうの「小説」を書く資質がじゅうぶんにあったと思えます。残念ながら、彼自身が罰になってしまった以上、わたしたちは彼の道を見ることは、たぶんできないでしょう。しかし、酒鬼薔薇聖斗が書くべきだった「小説」を書く人が、どこかにいるかもしれません。いや、すでに書いているのかもしれません。

私には、木霊のように、酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文が重なったわけですが、著者の狙いどおり、私の木霊を呼び起こす力が、まさしく猫田道子の『うわさのベーコン』に、その小文にあったということかもしれません。酒鬼薔薇聖斗を呼び戻す声を持っていたとも考えられます。どこか近い何か似ていると私には思えたようです。

とはいえ、私にとっては、猫田道子の『うわさのベーコン』について、まだ、「ヘタウマ」くらいの感想しかありません。が、高橋源一郎が深くインスパイアされたことはよくわかりました。この本を書こうと思ったきっかけは、実は猫田道子を読んだからではないかと思ったくらいです。

では、この本から、猫田道子『うわさのベーコン』の一節の孫引きです。

 私がこの家に生まれた時から、私の身近には楽しい音楽がありました。これはきついレッスンにたえていく音楽ではなくて、私の生活の一部になっていました。
 藤原家は父一人母一人兄一人と、私。兄は私が生まれた時からフルートを吹いていたのですが、私が三歳になって、兄は交通事故にあい、フルートが吹けない体になってしまいました。その日、兄のフルートを手で持って遊んでいました。
 兄はその交通事故のあった日より三日もたたない内に死んでしまいました。
「お兄さんにはもう逢えないの?」
 私が母親に、この質問をしたのは、兄貴が死んで、ちゃんとあの世へ送り届け終わった後。それまで私は、兄貴の姿が見えないことに気づいていても、口にせず、いつかひょっこり現れてくるだろうと信じていました。
 この私の質問に母親は何かしら答えて下さったのだけれど、私は何を喋っていたのか分からなかった。”聞こえない”
 私の中で、はっきりその事が分かって、それでもまだ私の答えて下さる母親に申し訳がありませんでした。
 私は耳が聞こえないことを母親に言うと、私を耳鼻科に連れていって、耳の手術を受けさせました。お陰様で耳は、すごくよく聞こえる様になりました。楽しい音楽とやらは現在進行形でしたがフルートの音色が足りない。「これ、使わないの?」と誰となく聞いてみたら、母が、「お兄ちゃんが使っていたのだけれど、お兄ちゃんが交通事故で死んだら使う人がいなくなったんだよ。」と答えて来られたのでした。ここで改めて私は兄の死を知らされた。私は泣いてしまいました。わんわん泣いていても、母達は私をなぐさめず、自分の音楽にふけっています。それでもまだ泣いていた自分が、ふと泣くのをやめて辺りを見回すと、皆んな笑っている。”何故笑っているの?”


明日から猫田道子を探してみます。

(敬称略)

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