コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

元気ですか

2006-10-08 23:12:29 | ノンジャンル
中島みゆきのカバーアルバム『元気ですか』。

お勧めは以下の3曲。

槇原敬之 『空と君のあいだに』
浜田真理子 『アザミ嬢のララバイ~世情』 メドレー
福山雅治 『ファイト!』

浜田真理子という人ははじめて聴いた。『世情』はちょっとすばらしいです。

文芸時評という感想

2006-10-06 01:31:05 | ブックオフ本
(荒川洋治 四月社)。ブックオフ本ではなく3200円。2段組でお得。

タイトル通り、文芸時評というエラそうなものではなく、ただぼくの感想です、という本。詩論の本の「感想」に、「ぼくのようなしろうとにはわからない」とさらっと書いているところがすごい(開きのおおいあらかわさんの文が伝染ってきた)。荒川さんは現代詩を代表する詩人の一人とされているから、もちろん、「感想」や「しろうと」を文字どおりには受け止められないが、かといって荒川さんが嘘をついたり、何かを気取ったり、あるいは意地悪をいっているわけではない、とぼくは思う(感染中)。たくさんの本を読み、多くのことを考えてきた読書人に近い立場に自らを置いているのだろう。




ぼくは荒川さんの取り上げている本や著者のほとんどを知らないが、その「感想」を読み続けるのにちっとも困らない。日頃接していることばについての話だからだ。敬愛する友だちや先輩から、最近読んだ本の話を聞いているように、くつろげて楽しく、一緒に読んだような気になる。もちろん、荒川さんは、「感想」や「しろうと」を言い訳に逃げるような「藤四郎」みたいなことはしない。とても辛辣です。ほかの「時評家」を知らないが、いちばんじゃないかと思う。これほど筋道をとおして批判されたなら、著者はかなり堪えるだろうなと思うからだ。たとえば、村上春樹について、

<現代日本で、いまのところもっとも才能のある文学者(略)。だがこの人の文学はひとまず終結したと思う。『神の子どもたちはみな踊る』(2000)で頂点をきわめたのだから、この上することはない。他分野へ移るべきとぼくはこの欄で書いたが、『海辺のカフカ』は従来の村上作品のつぎはぎであり娯楽作品としても不首尾だった>

この<他分野>とは、荒川さんのホームグラウンドの現代詩。現代詩の世界でもすぐに大きな仕事をしてくれそうだとかなり本気で期待しているようなのだ。批判は率直で賛辞は素直。とても折り目正しい人に逢ったように後味はさわやか、とぼくは思った。「文學界」の同人誌評を毎号楽しみにしているという荒川さんは、作家や批評家より、読書人を愛しているように思える。作家や批評家が読書人でなかったり、読書人足り得ないときに荒川さんの失望は大きいようだ。「文学は実学だ」「文学は書くものではない。動かすものだ」など、この「時評」には刺激的な直言も多い。文部科学大臣になってほしい、マジで。

パーティに行かず、友だちと古本屋巡りをしたり、本の話をするのが好きな荒川さんをある酒場で見かけたことがある。そこは荒川さんの古い友人が経営する酒場で、酒を呑まない荒川さんは、サントリー鳥龍茶1リットル入りペットボトルを出されていた。酔っぱらいしかいない場所で、荒川さんは端然としていた。詩人の実物を見たのははじめてだった。それから、何となく詩が身近なものに思え、荒川さんの本を読むようになった。荒川洋治が仕事を続けているというだけで、世間もそう捨てたものじゃないとぼくは思っている。

伊吹新文科大臣が早期英語教育に反対

2006-10-02 00:31:07 | ノンジャンル
伊吹文明新文科相が早期英語教育に反対、国語教育がより大事と「個人的な見解」を述べたが、英語から国語教育に重点が移されるということはなさそうだ。

ちょうど「文芸時評という感想」(荒川洋治 四月社)を読んでいたら、「ごん狐」の授業が紹介されていた。産経新聞連載の文芸時評12年間分をまとめたもので、以下は1995年12月に掲載されたものだ。


<十一月二日、広島県呉市立五番町小学校で開かれた研究集会を見学した。同校は平岡政昭校長のもとで、四年前から「音読」を積極的にとりいれた国語の授業を続けている。
 その日、「ごん狐」(新美南吉)の公開授業をのぞいた。先生は児童たちにその作品のなかの「おやあ」という会話の部分を「音読」させる。たとえば中山くんが「おやあ」と読む。先生は、中山くんのその「おやあ」はどういうものかな、ときく。すると「あの人がまさか」と答える。他の子は「こんなところで」だったり「たんなるおどろき」だったり。どれが正しいわけではない。みんなで並べあって、言葉の心を見つめていく。
 子どもたちは大きな声を出す。しかも体全体をつかうので、国語の時間というより体操の時間みたいになる。頭脳で理解するのではなく、言葉を体全体で「体験」するところに狙いがあるようだ。先生も子どもたちも授業中とは思えないほど、いきいきしていた。
 前夜お目にかかったときの校長先生は、明日の研究集会がうまくいくか心配らしい。たて続けに何本もたばこを吸っていた。そのようすから、この先生ははにかみやで、繊細な人なのだとぼくは感じた。そういう人だからこそ、思い切ったことができるいのかもしれない。
(中略) 
「音読」授業にはぼくとしても感想がないわけではない。ぼくが子どもだったら「音読」なんてはずかしくてできない。「おやあ」がいえなくて学校に行くのがいやになったかも。でもある地点を乗り越えるとこうした授業はとても楽しいものになる。かりに「おやあ」の解釈はできなくても、「おやあ」の声を出すことができれば、それもひとつの表現であると認められるのだ。自信を持つことになる。
(中略)
 五番町小学校の、ある授業では、子供たちにコンピューターをひとつずつ持たせる。そして各自が、ある詩の一行をどんなふうに読むか、アクセント、休止のポイントを画面に示す。それをみんなで見つめ、意見をかわすというものだった。
(中略)
 なお、他の教科も含めた五番町小学校の記録は「学びあい、深めあい、認めあう授業の創造」と題する冊子にまとめられた。>

「音読」授業の見学から、現代の小説の言葉に「コブシやリズム」が失われ、平板になっているのを文芸批評家は問題とせずと批判する下りがあり、
<そしてだいじなことは、小学校の国語の時間と、おとなたちの文学がどう結びつくかということだろう。言葉への愛と親しみは、子供のときにはじまる。おとなになってからではどうにもならないことかもしれないのだ>
 と荒川さんはいう。

 伊吹文明新文科相の「個人的な見解」(なら発言すべきじゃないが)には、俺も同感だ。同意できないのは、たぶん伊吹新文科大臣がイメージしている国語教育とは、上記のような授業ではなさそうだからだ。複雑で膨大な知識や情報を理解するための基礎力となる国語教育の強化、あるいは美しく豊かな日本語の伝統を身につけるといったものだろう。いずれもそれ自体は、誰しも反対するようなものではない。しかし、まったく時代性と社会性を欠いているという点で、積極的に賛成しようがないものだ。はたして、「学びあい、深めあい、認めあう」という関係性を伊吹文明新文科相は是とするだろうか。「子供たちはなかよくね」という話ではなく、荒川さんのいうようにおとなたちの問題として。