コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

地球ラジオ

2007-09-10 01:02:55 | ノンジャンル
http://www.nhk.or.jp/gr/shoukai/index.html

土日の夕方5時から世界168か国と地域に同時放送されている、NHK総合の「地球ラジオ」のファンだ。毎週、後藤繁榮(ごとうしげよし)と大輪香菊(おおわかぎく)アナが、「(お便りを)お待ちしています!」と声をそろえるのを楽しみにしている。

番組中の各コーナーは、ホームページから引用すると、以下の通り。

ワールドテレホンネットワーク: 世界各地に電話をかけ現地の様子を聞く
世界まるごと質問箱: リスナーから寄せられた世界各地の暮らしへの疑問
世界井戸端会議: テーマに合わせて世界中から届いた情報、意見
地球でっかいゾウ: リスナーが体験したカルチャーショック
地球情報局: 世界各地で暮らす人々に、地球の「今」を聞く
世界遺産の街から: 現地にお住まいの方が世界遺産を紹介する
僕たち私たち元気だよ!: 日本人学校で学ぶ子どもたちの作文
奮闘ジパング: 日本で暮らす外国出身者をスタジオに招く
地球どっちッチ: 二つのテーマから選択して各地の事情を聞く
にっぽんチャチャチャ: 海外で活躍する日本人に話を聞く
ワールドミュージックシーン: 世界の音楽をお届け
ふるさと日本の歌: なつかしい日本の歌をご紹介

土日の夕方5~7時は、たいていどの局も、今日の出来事を振り返るというより追い払いたいようなせわしないニュース番組か、何回の何アウトの何ストライクと小刻みに時間を区切っていくプロ野球中継かに決まっている。比べて「地球ラジオ」には、まったく別のゆったりした時間が流れている。

世界各地の時差を考えて、「こんにちは」や「こんばんは」という時制の挨拶はしない。「東京の桜は満開です」「大型の台風が関東を直撃しました」と会話の流れから触れることはあっても、ことさら日本や東京の時候や時間帯を知らせることはない。いまここが中心ではなく、聴取者の住む国や地域の話に耳を傾けるからだ。

「ワルシャワの今頃はどんな気候ですか?」「ツバルはいま何時ですか?」「ケニヤッタではいまどんな花が咲いていますか?」。海外在住の聴取者へのそんな質問から番組は転がりはじめ、それぞれ気候も時間帯も違う街や村に住む人々が同時に聴いている。ホームページにアクセスすると放送日でなくとも聴くことができるから、時差どころか日付さえ異なって聴いている人もいるはずだ。

「地球ラジオ」には、そんな何時とも何処ともつかない時間が流れ、聴取者から寄せられた身近な話題を聴いているうちに、ふと自分も、日本という「外国」に暮らしているような気になる。クスッ、へえとひとりごちた小さな共感が、周波に乗って静かに波紋を広げ、地球大の町内会みたいな共生を感じさせる微風を吹かせている。ちょっと大げさにいえば、そんな感じだ。

インターネットには、これとは反対の印象を受けることが多い。誰が送り主かにこだわるあまり、平板な無時間モデルになっているように思う。何かを届け、届けられたという気がしないのは、届け物がつねに「みんなへ」という宛先不明だからだろう。名無しや匿名が圧倒的多数だからか、かえって誰もが自分のキャラクターをつくるのに躍起となっていて、その自己顕示欲の強さには辟易することが多い。送り主は自分という時間に閉じこもっている気がする。

「地球ラジオ」には、特定の季節や時間はないが、時は流れている。番組に登場したり紹介される聴取者のそれぞれに、住まい暮らし旅するその地の季節があり、時間が流れているというだけでなく、約2時間の放送を共に聴いているというもうひとつの時間の流れがある。彼や彼女の時間と俺の時間は別に流れているが、同時に時を刻んでいること共に感じられるわけだ。

そうした共感は、まず彼や彼女の感じていることを理解できるからだ。彼や彼女らが感じたことは、日々の暮らしのなかで感じたことに限られるからだ。

四方山話といえばそれまでだが、もしかすると政治や経済、宗教や戦争などの知識や情報が、私たちの四方を囲む山となっているのではないかとも思う。「地球ラジオ」を聴いていると、山向こうにも私たちと変わらぬ暮らしがあることがわかる。私たちの四方の山は、もとから天然自然にあったのではなく、その仰ぎ見るその高さや険しさは、私たちの外からではなく、内から網膜に映じただけのものかもしれない。

そんな地球大の世間に眼を開かせる好番組だと思う。

メインコーナーは「地球どっちッチ」。今日のテーマのひとつは、「車の値段」だった。ポーランドからの便りでは、日本車の人気はとても高く、「走行25万kmの中古車でも、100万円から200万円もする」そうだ。俺が気に入っているコーナーは、地球放浪の自転車旅に出かけた若者や夫婦が、行く先々の様子と失敗や苦労話をEメールや電話で報告する「旅でござんす」。いいなあ。

まだ聴いたことがないならぜひ一度。
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生物と無生物の間

2007-09-06 05:05:56 | ノンジャンル
福岡 伸一 講談社現代新書

生物を構成する分子は、機械を構成する部品のようなものではなく、それ自体がダイナミックに動いている、らしい。

あらかじめ部品情報を欠損させた「ノックアウトマウス」は、成長に従い何らかの障害が現れるかと思いきや、まったく何らの機能不全も起こさない、らしい。

分子生物学では、分子を操作することによって生物を操作するという試みは挫折している、らしい。野心的な分子生物学者は、この挫折におおいに落胆したが、深まり広がる生命の謎に挑むことへ、新たな歓びを見出している、らしい。

こうして書いている、文字・語句・文章も一塊りの文章を構成するだけでなく、その短い断片それ自体に喚起力を持っている。

書き手が言葉を選んだ結果、組み合わされてプラモデルのように文章ができあがるのではなく、書き手の思念が言葉という道具を得て文章として結晶化するのではなく、何か個別の複雑な動きがあるのかもしれない。

文章が生成する現場には、書き手と同居する読み手という別の存在がある。「存在がある」という同語反復は、書いたそばから読んでいる、読んだらただちに書いている、という時間的なズレを示している。

本書を読むと、生物と無生物の境界を時間モデルと無時間モデルとする考えかたが紹介されている(俺はこうした分野ではゾウリムシ並みに無知なので、ほんとうにそう紹介されているかは保証できず、勘違いしている怖れはたぶんにあるが)。

プラモデルは無時間に存在するが、ゾウリムシは生成して死滅する時間の間に存在する(というような比喩や事例を本書では採用していない。あくまで俺のメタファーである。ややこしくてすまん)。

で、ゾウリムシは分子生物学について無知であるが、分子生物学が解析したような構造や動きを日常的に行っているわけだから、生物としては既知である、と負け惜しみをいいたいのではなく、生物と非生物の境界を時間モデルと無時間モデルとするなら、本書でジグソーパズルを分子の解説ツールとして採用したのはどうしてなのか、よくわからないというわけだ。

ゾウリムシからみると、ガンダムのプラモデルの組立てやモナリザの微笑みのジグソーパズル完成は、そのとほうもない困難さにおいて変わらないように、立体と平面の違いはあれど、どちらも似たようなものとしか思えない。

なぜジグソーパズルなのか。

本書では、その問いに、ジグソーパズルの一片を失くしたときにはどうするか、という問いで答えている。呆然としたゾウリムシに、ジグソーパズルの取扱説明書を読むことを勧める。そこに解決方法が書いてあるのだ。ジグソーパズルの製造販売会社が失った一片を送ってくれるというのだ。

そのためには、失った一片を真ん中の空白にして周囲6片のピースを製造販売会社に送らなければならない。ここでゾウリムシは、1ピースがその凹凸によって周囲6ピースと合体して、「部分」と名づけられたことに驚く。

なるほど、1足だけならガラクタだが、2足なら靴と呼ばれるのと一緒だなと納得するゾウリムシだが、たとえ1足でも靴は靴と誰でもわかるのに対し、周囲6片のピースがなければ、製造販売会社でさえ失った1ピースを特定できない。

ジグソーパズルの失った1ピースから、部分が部分として独立して支え合い、全体を決定していく分子生物学の仕組みを解説していく手際は実にスリリングだ。

その一方で、人がつくる組織は機械のようであり、人は歯車のようだ。それはなぜなのか。あるいは実際はそうではないのか。分子生物学の知見から人間社会を観察してみると、どんな異同があるのか。

本書をネタ本として、私たちが日々接する人々の振る舞いや組織について考え出すと、ようやくゾウリムシから人間になれたようで嬉しくなる(しかし、ゾウリムシとはひどい命名だな。草履職団体は生物学学会に抗議すべきだ)。20万部に近いベストセラーになっているのは、ネタ本として使えるからだろう。

「内部の内部は外部である」とか、触発される文章がたくさんある。社長の訓示もこんな本から引用して、生命体としての会社組織論とか、生態系としてのマーケットとか、一席ぶってくれると何とか眠らずに起きていられるのだが。

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武士の一分

2007-09-05 01:04:29 | レンタルDVD映画
山田洋次は助平だなあ。

新之丞の世話を焼くために甲斐甲斐しく働く若妻・加世の肢体を執拗に追うカメラ。その立ち座り、屈み伸ばす所作ごとに、襟足や二の腕、踝が見え隠れする着物姿には、清楚でありながら、たしかな官能が色づいている。

女の暮らしのなかの身体運用に美と性を見出すだけではすまず、レイプされたことを暗示させるように、カメラはその円い腰部に寄っていく。レイプの後先に関わらず、女は美しいといいたいなら、反動である。子どもと一緒に観るのは考えものだと思ったくらい、視姦めいたカメラだ。

記憶では、『隠し剣 鬼の爪』でも、親友の妻が上司に手籠(レイプ)されたことが、主人公の武士の一分を起動させた。

片田舎の貧乏武士にとって、身の回りの妻や女だけが空虚な人生に射し込んだ一筋の色彩であり、その貞操が汚されたときにだけ、決然と抜刀するという、まことに反武士道的な時代劇を山田洋次は意図したのかもしれない。

あるいは、山田洋次という映画監督は、その寅さん映画を含めて、ひたすら母性的な女性像を追い求めてきたのかもしれない。寅のあり得ない恋愛遍歴にリアリティがあるのは、さくらがいる限り、寅に女は必要ないなと誰しもが納得しているからである。

寅にとって、さくらは理想的な女性像であり、同時に現実には妹であり、実質的には女房であるがゆえに、他の女に真実心を寄せることはない。つまり、寅はマドンナをセックスの対象(もちろん広義の意味において)としか見ていないのであるが、いざ相手から好意を示されると、にわかに禁欲になるか不能になる。さくらに対して後ろめたいからだ。

そうした寅の煩悶が、たいていは女房である女性観客と、たいていは小心な浮気者である男性観客に安心感を与え、ホームドラマとして成り立たせているのだ。寅がときにちゃぶ台をひっくり返すのは、とら屋という家族や家庭から疎外されたと怒ったからではなく、さくらから男として疎外され続けることで居場所がない苛立ちからである。

「大丈夫? お兄ちゃん」と柴又駅に追いかけてきたさくらに、春風に吹かれたような笑顔で、「泣くんじゃねえ。大丈夫だよ、お兄ちゃんは」と寅がいうとき、その報われないシラノ的な悲恋はあらかじめ完結している。

そして性的に抑圧された寅は、ここではないどこかに俺を待っている女がいるはずだと、ドンキホーテ的な突進をマドンナたちに繰り返し、奮闘空しく敗れ去るという予定調和の物語に自らの体面を賭け続ける。

そうした高潔かつ卑小な男の内面の葛藤を描いて、寅さん映画は普遍的な物語たり得たのだが、山田洋次のここ一連の時代劇映画に登場する武士には、武士道という規範を主題とするがゆえに、寅のように破滅的な均衡を内面に抱えない。

夫婦の愛情物語なので、とら屋のように家族や周囲との摩擦もない。魅力的な庄内弁を標準語に置換してみれば、実は少しもローカルではない。主家と家来の権力関係もはるかに後景に退いているので、時代劇ですらないのかもしれない。

あるいは、無いものねだりか。山田洋次は、カンヌやベネチアで賞を獲得できるような、無国籍な「サムライ」ファンタジーをつくりたかったと考えることもできる。だから、レイプ犯に起動する武士道といった、忠義とは無縁の珍妙な時代劇をつくってしまったのかもしれない。

そう考えると、この映画のシンプルな印象とは、山田洋次の単純な欲望によるものだといえるのかもしれない。

というわけで、見せ場は若妻を演じた檀れいの美しい立ち振る舞いしかない、きわめてスケールの小さな映画だが、木村拓哉は好演、笹野高史は絶品、そして桃井かおりが見事な「一人芝居」(皮肉である)を見せてくれる。

「東芝日曜劇場」で放映されたなら絶賛したいが、映画としてはまるでもの足らない。芸術には毒が必要だとよくいわれる。檀れいの尻に寄るカメラはたしかに目の毒ではあるが、ただの汚れた欲望の視線のように思える。

汚れたとは、倫理的な物差しからではなく、手垢の付いたという意味である。しかし、皮肉なことにその山田洋次の汚れた視線だけが、この映画で唯一の映画的なリアリティを感じさせたのだった。



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街場の中国論

2007-09-04 20:04:39 | 新刊本
内田 樹 ミシマ社

ゲッツ板谷の『BESTっス!』(小学館)と一緒に購入。
以前にも書いたが、この2人のライターはいまのところはずれなし。
ともに、肉体派(内田の場合は、身体派か)にして、地元の友だちと遊んでいるのがいちばん楽しいという長屋派。内田の「金なら貸すぞ」に対して、ゲッツは「得することばかり考えているやつは嫌い」と、どこか似ている。

さて、<街場>とは「プロ」や「専門家」の偏向から逃れたいという意味らしい。具体的には、神戸女学院の大学院のゼミ研究のテーマとして現代中国論を立ち上げ、社会人聴講生を交えて議論する場をつくった。専門家がいない街場をプラットフォームにして、日中間のトピックという列車や電車を引き入れては、その出発地や到着地を調べ、それぞれの乗客たちを近寄って眺めたり、ときには声をかけてみようという試みだろう。

中国について論じる学者やジャーナリスト、評論家、事情通たちは、それぞれの欲望(利害や願望など)から、親中であれ反中であれ、必ず偏向(情報の評価を誤ること)する。

たとえば、親中派は多くの矛盾を抱えるがゆえに中国の可能性を見い出し、中国共産党の統治能力を過大に高く評価し、やがて、東アジアにおいては日本の兄弟となることを願い、国際社会においてはアメリカを牽制する存在感を持つことを期待する。

反中派は多くの矛盾を抱えるがゆえに中国に不可能性を見い出し、中国共産党の統治能力をことさら低く評価し、やがて、東アジアにおいては日本の強大な敵となることは不可避とし、国際社会においてはアメリカと覇権を争う存在感を持つとして恐怖する。

親中派と反中派のいずれもが、中国はまだ弱いという認識では共通しながら、いずれは頼もしい味方、あるいは強大な敵になると飛躍する。どちらも、中国が大変だ、だから日本も大変なことになるという事大主義になりがちだ。中国はまだ弱く、したがって将来も弱いままだから気にする必要はない、という中国論を聞かない。

「それが彼らの商売だ」とするだけでは、ただの思考停止に過ぎない(It is not my buisness が「私は無関係だ」と訳されるように)。

親中派と反中派が、希望的な観測と最悪の予測という違いはあっても、結論が先にありきだとしたら、その根拠となるデータや情報も偏っているはずだから、足して2で割るくらいがちょうどよい。その程度のメディアリテラシーは誰でも多少は心得ている。

問題は、足して2で割れるほどの厚みや膨らみがある議論なのかどうかだ。

それは新聞をはじめとするメディアが日々垂れ流す、自民党と民主党との政争の局面を報じる政局報道とよく似ている。そこでは、この間の政策論や政党論などはもちろん、あれほど顕著な有意性を示した先の参院選の投票行動についてさえ、掘り下げられて論じられた形跡はない。メディアと民主党と自民党、それぞれの分析や総括はほとんど同工異曲だった。選挙民は、まるで「消えない年金」や「地方の再生」や「バンソーコが似合う大臣」を選択したかのようだ。

親中派と反中派の対立を「読む」と、両者の議論の枠組みや視点はよく似ているのに気づく。日米中3国の国際関係論的な枠組みがまず示され、日本は米中の綱引きに翻弄される受動的な存在に過ぎないとされ、親中派も反中派も日本の没主体的な姿勢に歯がみをする。

中国の反日運動についても、官製の反日運動か、ねじれた反政府運動か、あるいはその混交か、いくつかの見方は示されたが、反日運動に参加した中国人たちの不満の内容や具体的な要求についてはほとんど報じられず、また、いったい日本と日本人のどのような言動が中国の反日運動に影響したのか、その反日の経緯を報じた記事や評論も見当たらなかった。

やはり、足して2で割れないのだ。

つまり、何が語られたか、語られているかでは、いっかなわからないわけだ。では、何が語られていないかを問題としよう。本書のリテラシーについての考え方を俺はそう読んだ。

何が語られていないかを考えるために、本書が示した方法はとくに変わったものではない。その方法とは、いったん日本人であることを「」に入れて、同時に「」付きの中国人になってみるという試みだ。相手になった気で考えてみようというわけだが、その前段階として自らを「日本人」として棚上げしなければならないところが肝だろう。「」をいわゆると置換すれば、それだけで日本人としての自明性を疑わせる視野の広がりを得ることができる。

本書がいうリテラシーとは、専門家の「欲望」と同様な「欲望」を私たち自身も抱えているから、「人の振り見て我が振り直せ」と絶えず自分の読みかたを疑えという勧めであるようだ。他人を疑えば、世間という前景は狭くなる。自分を疑えば、広がっていくはずだ。恩讐や愛憎を越えた人と人のつきあいかたの可能性について、地政学的、文化的隣国である中国を題材にして説いているようにも読める。

「中国人」や「日本人」とは、ただいま現在生きている、胡さんや橋本さんだけを指すものではない。「いわゆる」というプラットフォームに立てば、過去と未来に、日本や中国に、双方に跨った歴史的存在として、大陸と列島の人々が見えてこないかという問いだろう。したがって、本書では、大学院のゼミという教育機会の強みを生かし、日中の地政学的関係や長きに渡る交流に視座を戻したり、やがては個々の中国人に出会えるような社会心理的な分析に進んだりする。

私たちもまた列車に乗っている。誰が買ったかはわからないが、自分で買ったものではないことだけはたしかな切符を持って、どこから乗ってどこまで来たか、そしてどこまで行くのかわからない列車の座席にいる。車窓を流れるのは、見たような、見たことがないような風景だ。ただ、トンネルに入ったり雨が降ったときなどに、窓ガラスに映った自分らしき顔を束の間見ることはできる。ところが、その顔には見覚えがない。

次のプラットフォームが見えたら、降りてみよう。誰が運転しているかわからないが、もしかしたら自分が動かしているのかもしれない。降りてみたとき、どんな景色が見え、どんな人たちが居合わせるのか。少なくとも、プラットフォームを渡る風はずっと気持ちがいいはずだ。




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