コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

合掌 江畑謙介さん

2009-10-15 12:42:00 | ノンジャンル
軍事評論家の江畑謙介が亡くなった。享年60。冷静な語り口と特異な容貌のギャップで知られたが、対面してみるとハンサムといってよい端正な顔立ちだった。一度、話をしただけなのに、毎年、鷹(アメリカ)熊(ロシア)龍(中国)兎(日本)が組んずほぐれつする自作イラストの賀状を送ってくれた。

「原稿だけで食べていきたい」とTV評論家として有名になったことに顔を曇らす生真面目な人だった。結婚は遅かったが、嬉しそうな連名の賀状がきた。伴侶を得たというだけでなく、家庭を築ける収入にようやく達したという喜びも大きかったのではと推測した。大学教授やコンサルタント、会社員など食い扶持を確保しながら、ライターや作家をしている人には、「筆は一本箸は二本衆寡敵せず」の生活苦と滑稽味をとうてい理解できないだろう。

いつでもどこでも誰でも、まず食っていくことが最優先課題である。そのためには、何をしてもよい、という人もいるし、何をしてもよい、わけではない、あるいは、どうしてもできないことがある、という人もいる。できる、できない、どちらも、その人の能力の一部のように思える。江畑謙介は、できない、という能力があり、それが含羞の人柄に通じていたように思う。できない、のは恥ずかしいことだが、それは欠損ではなく、付加であるから、埋め合わせはできないのだ。

新聞やブログでいろいろな人が「エバケン」の早すぎる死にコメントを寄せている。おおむね好意的なものが多い。ライバルと目された小川和久は、何かコメントを出しているのだろうか。戦争報道の視点や論じかたでは対照的とされ、彼の尊大かつ迎合的なコメントを私は好まないが、軍事記事という「食えない」分野をともに筆一本で渡ってきた小川和久が、いちばん瞑目しているような気がする。

(敬称略)
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亀ちゃん、グッジョブ

2009-10-08 02:19:00 | ノンジャンル


中小企業融資や住宅ローン返済を猶予するモラトリアム法案をぶち上げたのに続き、亀井静香金融・郵政担当大臣の発言が注目を浴びている。今年3月、御手洗経団連会長と面談した際、「家族間殺人の増加は、従業員を人間扱いしない大企業に原因がある」「内部留保を雇用のために吐き出せ」と批判したことを最近の講演で明らかにした。

当初、防衛大臣就任をを取りざたされたときも、TVのニュースショーで、「亀井静香がCIAに暗殺でもされない限りアメリカに従属することはない」と発言して話題になった。また、警察官僚出身なのに、「警察は間違う」として、かねてから熱心に死刑廃止運動に取り組んでもいる。

鳩山首相が政権交代前に雑誌に発表した論文で、アメリカ経済を「強欲資本主義」を批判したことが、次期首相発言としては「反米的」で穏当ではないと批判された。鳩山論文は、とりたてて過激というほどの内容ではなく、今日ではごく常識的な批判といえる。また、オバマ大統領自身がすでに「ウォール街の強欲」という言葉を使い、アメリカ経済の管財人をアピールしているから、インパクトにも欠けるものだった。

それでも、鳩山次期首相がアメリカについて「穏当」ではない論文を書いた、という事実によって、アメリカ追従の経済政策以外があり得るのだ、という「事実」を私たちは知ることができた。「日米」から「穏当ではない」という批判を受けることによって、彼らが怖れていることを私たちは知った。ただし、私たちはもうひとつの視点を持つべきだった。批判されるアメリカ経済をこれまで支えてきたのが、他ならぬ日本経済だという視点である。

これに比べ、一連の亀井発言は、はるかに本質的な論点を含んでいる。

第1に、これまではアメリカに従属してきたが、これからは従属しないと言明して、アメリカに対する日本の立場が属国関係であることをあらためて明らかにした。さらに、その従属関係が暗殺を含む恫喝的な手段で維持されてきたことを明示した。つまり、追従という結果ではなく、属国という関係に遡ってみせた。

第2に、大企業と雇用の関係を経済の一要素というだけに限らず、日本社会の不安定要因に拡大し、社会的紐帯を結ぶ直す求心力の再生にまで、その責任を厳しく問うた。つまり、経団連会長に一企業のトップ、一国民としての自覚を求めたわけだ。

第3に、オバマ大統領と同様に、自らも日本経済の管財人であることをアピールしてみせることで、鳩山政権が管財人政権であることを明らかにし、なおかつ、「第一次鳩山内閣」こそ、その管財人性格がきわめて強くあらねばならないことを、連立政権内外に身をもって訴えた。

本質的とは、以上のように、自己遡及がなされているときにいう。自分の主張や批判に対して、まず自分自身が投げ入れられているかどうかに尽きる。

一連の亀井発言をポピュリズム放言と貶め、実現不可能と似非現実主義者はいうだろう。木っ端ジャーナリストやヒョウロンカ、ハンチク経済学者などのインチキテリアたちが、ズブズブの自民党保守政治家だった亀井静香をまるで青二才のように嘲笑する様は、その引き攣った笑顔とともに滑稽というほかはないが、亀井発言が実現しようとしまいと、言葉が政治を変えていくのである。

あるいは、言葉しか世界を改変しないのだ。法制度が変わり、失業率が何ポイント上昇しようがそれは結果に止まり、現在に過ぎない。原因の種子を撒き、未来を獲得するのは、つねに人間が発語主体となる言葉だけである。生活者としての経験を重ねながら、人間と言葉のリアリズムに逢着しない者は、もうどうしようもない。

鳩山とその周辺は、長期政権を狙っている様子がある。国民は民主党を支持したというより、自民党の退場を願った結果として政権交代がある。その認識を踏まえて、民主党が真に政権を担う政党に成長しなければならない、というのが鳩山一派。亀井や小沢、そして菅は、たぶん違う。60年余に及ぶ自民党政治の清算、管財を行うのが「第一次鳩山内閣」。その後は、民主党であるかどうかは不明。少なくとも鳩山民主党の先を見ているだろう。亀井や小沢は新しい保守党を念頭に置いているかもしれず、菅は新しい構造改革派社会党を構想しているかもしれない。

(敬称略)

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グラン・トリノ

2009-10-01 02:42:00 | ノンジャンル


イーストウッドにハズレ無しが、ハズレた。某経済評論家がこの映画を新聞で絶賛していたのを読んで以来、もしかしたら失敗作ではないかと心配していた。もちろん、映画批評ではなく、アメリカ経済の苦境と社会の混迷を描いた映画として、経済評論家の立場から感想を述べたものだった。

(以下、結末に触れますので、これから観ようという方は、ここで読むのを止めてください)

フォード自動車工を勤め上げた頑固な老人ウォルター・コワルスキーが、ガレージに50年かけて集めた工具のコレクションを並べているところに、「ものづくり」の精神を喪失した近年のアメリカ経済の歪みを見たり、タフガイが自殺に等しい最後を選ぶことから、世界の警察官として「目に目、歯に歯」とふるまってきたアメリカの反省を見たり、あるいはウォルトがモン族のタオにグラン・トリノを遺すところに、アジア人に希望のバトンを渡そうといるのではないかと考えたり、この経済評論家はとても図式的な見方をしていた。

もちろん、どのような見方があってもいいし、経済に引きつけて図式的に語ることこそ、彼に期待された映画評なのかもしれない。そして私も、この経済評論家とほぼ同様な図式を見た。残念ながら、それ以上の謎や問いは見つけられなかった。

ウォルトが一種の「自死」を決意するまでの与件が説明的に重ねられるので、たいていの人は「意外な結末」に途中で気づくはずだ。イーストウッドらしくなく、あまりに説明的なので、もしかするとこれは「自爆テロ」を隠喩としているのかという考えが浮かんだくらいだった。

もちろん、それは穿ちすぎというもので、ウォルトの「犠牲」によって、悪人たちが罰せられ平和な社会から遠ざけられるという解決策とは、何のことはないアメリカ主導の集団安全保障体制、つまり多国籍軍のことだとすぐにわかる。ということは、911以前、アメリカ政府だけでなく、アメリカ国民もまた、多国籍軍を本気考えていたわけでなく、帝国軍とその同盟軍くらいにしか思っていなかったわけだ。

1972年にグラン・トリノを造っていた頃に比べれば、はるかに非力となったウォルトは、朝鮮戦争で犯した過ちを悔い、家族との絆を築けなかった不毛の半生を悔い、変わってしまったアメリカに疎外感を抱いてやりきれない毎日を送っている。

そこにモン族のチンピラたちという脅威がやってくるが、昔とった杵柄を試みたところ、思いもかけぬ大きな犠牲を生み、ウォルトは、「俺はまた同じ過ちを犯してしまった」と苦しみ悩む。これはどうしたって、ウォルト=アメリカであり、太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、911以降は「テロとの戦争」を闘いながら、国際社会の尊敬を得るどころか、世界の嫌われ者となったアメリカである。

某映画評論家が、最近のイーストウッド作品には、「破綻がない」と暗に貶していた。たぶん、彼はリベラルではないイーストウッド作品を好まず、よく観ていないのだろう。その気持ちはわからないではないが、観ないで批評や感想を述べてはいけない。「グラン・トリノ」は、アメリカ経済と同様に図式として破綻しているし、あちこち瑕疵だらけだ。

まず、私はモン族をまったく知らないが、その「オリエンタリズム目線」は露骨だいうくらいはわかる(オリエンタリズムとは視線のことだから、同義反復だが)。「正直でよろしい」というわけにはいかない。異族・異人種として、モン族の異様を強調したことではない。問題はスーだ。アメリカに同化してウォルトの異文化への道案内役を務めるスーが、まるで国連の高等弁務官のようにモン族を語るのだ。ウォルトがアメリカへ同化させようとするタオも、スーと同様にウォルトの視線から一歩も出ることはない。

スーやタオがもっと複雑な自己表出をしていればということではなく、ウォルトとの関係性が乏しいのだ。スーはチンピラたちを罵って圧倒するほど強いアメリカ女性にすでに変わっているし、タオも男らしい中西部の男にウォルトが変えようとしているが、はたしてウォルトはどうだろうか? 幼い息子と娘を得て、若かった昔に戻ったような気になっただけ、何もどこも変わっていない。変わる必要があるとも思っていない。

アメリカの伝統的な価値観に大きな影響を及ぼしているはずの宗教についても、とってつけたような若僧神父の登場と関与にほとんど説得力がない。スーやタオの大家族の温かさに目を細めながら、息子や孫など自分の家族には蔑みに近い視線を抑えきれない。たとえ宗教や家族に裏切られたと思っていたとしても、これほど冷淡なら、かつて信じていたというのも疑わしくなるではないか(イーストウッドはアメリカの笠智衆かと思っていたのだが、よほど宗教や家族が嫌いのようだ。「ミリオンダラーベイビー」でも家族は冷酷無惨なだけで、神父はやはりマヌケ面だった)。

ウォルター・コワルスキーには、国に命じられた戦争と会社に命じられた仕事しか、人生にはなかったのか。それがウォルトに擬人化されたアメリカの自画像なのか。こうした図式的解釈に陥ってしまうとき、観客に問題ナシとはしないが、やはりその多くは映画の責任なのである。

(敬称略)

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