映画「凶悪」予告編 https://www.youtube.com/watch?v=BIiPio_xnes
シャイロックは悪徳高利貸しだから裁判に負けたのではない。シャイロックの手元に滞留していた金が、アントニオに貸し出されたことで貨幣本来の流通機能を取り戻し、判決によって返済を免れたことで資本として完全に解放された、という話である(
ヴェニスの商人の資本論 注1)。
利用もせず担保にもしなくて放置された土地を地主を殺して転売する。経営が傾いた電設会社の社長にかけられた多額の保険金という「貯蓄」を殺して手に入れる。いずれも金を回すことで資本に変えていく経済社会からみれば、殺しを除いて、きわめて合理的な運動といえる。
「
凶悪」の実行犯・須藤(ピエール瀧)や「先生」と呼ばれる首謀者の木村(リリー・フランキー)はなぜ殺すのか? 保険金目当ての殺しはともかく、
地面師に殺しは必要ない。地主を意のままに操ることができるなら、法的な書類を完璧に用意しておけば、民事不介入の警察に出番はない。
借金の支払いや生活費の必要に迫られて、コンビニやタクシー強盗に及ぶのがアマチュアの犯罪者だとすれば、計画して時間をかけて大金を詐取する彼ら「凶悪」はプロの犯罪者といえるだろう。しかし、不必要な殺しをする点でプロからは逸脱している。犯罪を完璧に隠蔽する目的がただの口実に過ぎないかのように、彼らは躊躇なく殺す。
彼ら「凶悪」に、捕食者の正当性を与えているかのような場面がある。
建築会社の焼却炉で死体を焼いて始末しようとするが、炉が小さくてそのままでは入らない。須藤が鉈で死体をバラバラに刻み分け、投げ入れた後の火を眺めながら「先生」木村との会話。ひと仕事を終えた和やかな連帯感が二人を包んでいる。
木村 「肉の焼けるいい臭いがする」
須藤 「なんだか、肉食いたくなっちまうなあ」
場面変わって、「先生」木村宅で賑やかなクリスマスパーティ。サンタクロースに扮した木村。ローストチキンを手にはしゃぐ須藤やトナカイの着ぐるみを着た舎弟。その妻や子どもたち。
ただし、ほんとうの祝祭は、殺しの現場だった。須藤の殺しを意味する、「ぶっ込むぞ!」という脅しは、祭りの始まりを告げる太鼓の音であり、始まればグロテスクな祝い歌の合いの手、掛け声のように耳奥に残っている。被害者の悲鳴や苦痛の呻きをお囃子に、「凶悪」たちの哄笑と喝采が爆発する。
彼らは貪欲に、滞留した金と弱い人間を探して食らう。
人は目先の金に追われて金を追いかける回し車を懸命に走っているネズミだ。借金を背負っていなくとも、不要不急の消費そのものが、未来の収入を当てにした借金ともいえる。回し車を懸命に走るうちに、気がつけば犯罪に踏み出していたとしても、いまさら止まるわけにはいかない。
金が持つ凶暴な意思や行動力に魅入られたときの全能感は、善や悪といった道徳倫理を越え、処罰されるかもしれないリスクさえ恐れなくする。その一方で、金さえ得られれば、という犯罪者なりの秩序や合理に従った行動でもある。騒がれたから首を絞めた、向かってきたから刺した、悪いのは俺じゃない、と必ずのように言い訳をする。
金欲しさの犯罪の機序をそう考えるなら、彼ら「凶悪」はまるで違う。彼らの回し車は全体が見えないほど巨大で、その踏み板となっているのは横たわった人間である。踏み潰すときに上がる悲鳴は、回し車がゆっくりまわる心地よい前進の軋み音なのである。
彼らは老人という弱者を踏み潰すことで大金を得る犯罪のビジネスモデルを確立している。木村は須藤に、「老人はいくらでもいる。俺たちは油田を掘り当てたようなものだよ」と「起業家」宣言をする。実際、須藤が収監された後、木村は介護サービスに従事する手下を連れて、獲物探しに老人施設を回っている。
彼ら「凶悪」が捕食者だとすれば、密林の弱肉強食へ先祖返りではなく、この経済社会が生み出した捕食者といえる。彼らの犯罪は、私たちが目先の金に追われてやりかねない犯罪とは、地続きではない。振り込め詐欺の事務所を捜索すると、壁に「今月のノルマ」や「成績の棒グラフ」が貼られていると同様に、老人の金を市場に取り戻す経済活動のひとつに従事する、暗黒のビジネスマンといえる。
だとすれば、彼ら「凶悪」がなぜ老人を殺すのか、その答えも自ずと明らかになる。つまり、経済社会のコスト削減のためである。経済社会からのリストラとは、死以外にない。生命保険金目当ての家族から頼まれて「凶悪」が殺す、電設会社の老社長は、「そこらの男に5000万円もの借金ができるかって」と自らがつくった巨額の借金をむしろ自慢にしていた。
経済社会の生態系を維持する捕食者であれば、須藤や木村に贖罪はあり得ないわけだ。
という感想を抱くような「左翼映画」を監督は構想したに違いない。ところが、須藤・ピエール瀧の凄まじい「凶悪」の独壇場に、「先生」木村・リリー・フランキーの「冷酷」が後景に引いてしまった。凶暴が先んじて、暴力映画になってしまった。これは誤算だったろう。映画は監督のもののようで、監督のものではなく、現場のものらしい。
おかげで、「凶悪」に対峙する雑誌記者の藤井・山田孝之とその妻、認知症の母(吉村実子好演!)の市民生活のリアリティが味気なく映ってしまった。「凶悪」場面のクソリアリズムから生まれるブラックユーモアに拮抗する、ほのぼの可笑しく笑える家庭生活を対置していれば、大傑作になったと思う。
凶暴なヤクザ須藤が身内には優しい笑顔も見せる、面倒見のよい人物であるように、敏腕記者も明るく笑ってよく喋る、気さくな人物である場合が多い。眉根を寄せた暗い顔ほど、記者に似合わないものはない。ジャーナリストに市民社会の苦渋に満ちた正義を負わせる予定調和から脱して、吉村実子と掛け合い漫才する山田孝之が、思わずプッと吹き出す場面などを観たかった。
もしみなさまが東京で何かを失くしたならば、ほぼ確実にそれは戻ってきます。たとえ現金でも。実際に昨年、現金3000万ドル以上が、落し物として、東京の警察署に届けられました。
-滝川クリステル 2013/9/8 於ブエノスアイレスIOC総会にて、「お・も・て・な・し」スピーチより
そう、たしかに先進国中、日本の治安は例外的なほどよい。殺人件数も減少している。しかしそれは、統計上のフィクションかもしれない。「凶悪」は事実に基づいた犯罪実録映画であり、原作は『凶悪 -ある死刑囚の告発-』(新潮45編集部編 新潮文庫)である。死刑囚・須藤が3件の殺人の余罪を新潮45記者に告白するまで、警察は事件をまったく把握していなかったのである。
その3件の殺人事件のうち、立件されたのは、保険金目当ての電設会社社長殺しのみ。須藤の告白を聴いて、記事にしたいという記者に、編集長は当初にべもなくいった。「不動産ブローカーが老人殺して土地を転売するなんて当たり前すぎて誰も驚かない」。須藤や木村のモデルとなった「凶悪」が、実際には判明している以上の殺人に関わっている可能性は大きい。編集長と同じく、「ありふれた話」と耳目を塞いでいる世間に、私たちは暮らしている。
注1:引用ではなく、コタツの一部要約です。
(敬称略)