コタツ評論

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今週の明言 05

2018-10-10 00:35:00 | ノンジャンル
『新潮45』の「休刊」にともない、文芸誌の月刊新潮がその編集後記で「反省文」を掲載したが、ツイッターで引用されるくらいで、世間ではあまり話題になっていない。

先般の新潮社社長の「反省文」も中途半端なところが不評であったが、この矢野編集長文もあまり感心しないので、僭越ながら編集後記に朱筆を入れてみた。



まず、47行くらいの短文なのに、意味不明な記述や肝心な部分の説明不足がいくつも見受けられるのはどうしてか。

問題は小誌にとっても他人事ではありません。

どう「自分事」なのか、具体的に書かなければ、「だからこそ」と続けても説得性は乏しい。

それは、自らにも批判の矢を向けることです。

自己批判という意味なのか、よくわからない。差別的な雑誌や出版社の書籍などに寄稿する文学者たちにも責任があるということなのか。

小誌はそんな寄稿者たちのかたわらで、自らを批判します。

私が見聞した限りでは、「文学者たち」は『新潮45』と新潮社に掲載責任を問うているものがほとんどだった。「版権を引き上げる」という声もあったはず。

「自らにも批判の矢を向ける寄稿者たちのかたわらで自らを批判します」と繋げられるのだが、それでいいのか。事実を曲げても、「一体性」をアピールする意味がわからない。

私が編集者なら、筆者に再考をうながし、全面的に書き直しを求めるのは、やはりここだ。

同企画に掲載された「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」において、筆者の文芸評論家・小川榮太郎氏は「LGBT」と「痴漢症候群の男」を対比し、後者の「困苦こそ極めて根深かろう」と述べました。
これは言論の自由や意見の多様性に鑑みても、人間にとって変えられない属性に対する蔑視に満ち、認識不足としか言いようのない差別的表現だと小誌は考えます。


まず、上記の文章において、小川榮太郎は「LGBT」と「痴漢症候群の男」を対比させていない。「痴漢症候群の男」などいないから対比させようがない。アルコールや喫煙が依存症という疾病扱いになっているが、「痴漢症候群」は聞いたことがない。

病気なら刑事罰を科すのではなく、治療しなければならない。実存としての人間と架空の病気を持つ男を対比することはできないし、対比させようとしているなら、それは冗談か、筆が滑ったのだろう。

いずれにしろ、小川榮太郎はここで「LGBT」を「痴漢男」と同断するような「蔑視線」を出していない。逆に、権利や平等を社会に訴えられる「LGBT」に対して、犯罪者である以上に日陰者の変態扱いを甘受せねばならない「痴漢男」に同情を寄せているのだ。そうした、非対称の「対比」であることは誰でも容易に読みとれるはず。

「認識不足としか言いようのない差別的表現だ」という紋切り型の断罪についても、すでに「痴漢症候群の男」でクリアされている。アルコールや喫煙が依存症という疾病扱いされるなら、やむにやまれぬ「痴漢症候群」がそのうち認定されるかもしれない。社会の「認識」などいくらでもひっくり返る。そのとき、「認識不足」は「痴漢男」を「蔑視」する側ではないのか。

「LGBT」という呼称や被差別の認識などは、一過的な流行に過ぎない、そのうえで、「はたして属性と病気のどちらが上かね、下かね」と小川榮太郎は挑発しているのだ。素直に読めば、誰でもこれくらいの読解はできる。

さて、先に小川榮太郎は、「筆を滑らせた」と書いた。たぶん、編集部の意図を汲んで小川榮太郎は、「PC上、問題あり」「喧嘩上等」くらいの反応を予想して書いたのだろう。でなければ、筆を滑らせないし、滑らせたなら、「滑らせましたねえ」と編集担当から注意され、削除するか書き直しを求められたはず。

ライターはつねに編集部の注文に基づいて原稿を書くもので、恣意に書くなどあり得ない。時評などはもちろん、小説などフィクションも例外ではない。どれほどの大作家であろうと、出版社にとっては一売文業者に過ぎない。

したがって、私は新潮社と新潮45編集部の掲載責任を第一義と考える。「他人事ではなく」ではなく、もっと「自分事」の「反省文」を書かなければ「反省」したことにならない。

(敬称略)


忘れじの面影

2018-10-03 00:17:00 | 音楽
シャルル・アズナブールが死んだからと何かいえるほど年寄りではない。フランスの有名シャンソン歌手として名前だけは知っていたに過ぎない。ただ、映画「ノッティングヒルの恋人」の挿入歌としてエルビス・コステロが歌ってヒットした「She」の元歌を歌っていたとは知らなかった。素晴らしい歌詞です。

Charles Aznavour - Tous les visages de l'amour (She - Notting Hill)


忘れじのおもかげ(she)

彼女は 忘れ得ぬ面影
歓喜 それとも 悔恨の傷跡
尽きせぬ宝 そして 支払うべき対価
彼女は、夏が奏でる調べ
秋のもたらす冷たい風
あるいは、一日を通過する無数の出来事だろうか

彼女は美神、もしくは野獣
恩寵 または 不毛
日々を地獄ないしは天国に変える
私の夢の反映 でなければ 水面に映る微笑だろうか
否 彼女は目に見える通りではないのかもしれない
彼女自身の貝殻の裡にあっては

俗塵にあって 常に晴朗なその瞳は
誇り高く 孤高で 誰も涙を見出すことができない
彼女は 永遠を望まない愛
そしてそれは 過ぎ去った影に由来し
死に至るその瞬間まで 私に忘れることを許さない何か

彼女は生存の理由
私がなにゆえに生き、どうしてこの場所にいるかの答え
この寄せ集めの歳月の中で、ただひとつ、心を傾けるに値する対象
だから私は 彼女の笑顔を賛嘆し 涙を受け入れ
彼女にかかわるすべてを 記憶のうちに所蔵し
彼女のおもむくあらゆる場所に走り至るだろう
なぜなら彼女こそが私の人生であり、私の生きている意味は彼女だから

訳詞はこちらから
http://takoashi.air-nifty.com/diary/2005/11/post_3b3a.html

「ノッティングヒルの恋人」はヒュー・グラント乙女がジュリア・ロバーツ王子に娶られるという少女マンガを原作にしたような映画であると長々当ブログに書いた記憶があるのだが、なぜか見つからない。ご存知の方は所在を教えてください。

ともかく、愛らしいヒュー・グラント君に見惚れる映画でしたが、なんてえ大口女だとしかみてこなかったジュリア・ロバーツがはじめてきれいに撮れていると思った作品でもありました。

では、ついでに英語版も。コステロはこれには及ばないな。

Charles Aznavour - She (Lyrics) HD.mp4


(止め)



今週の明言 04

2018-10-01 22:51:00 | ノンジャンル
「陛下は靖国を潰そうとしてる」靖国神社トップが「皇室批判」
https://www.news-postseven.com/archives/20180930_771685.html

「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん? どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう? 遺骨はあっても。違う? そういうことを真剣に議論し、結論をもち、発表をすることが重要やと言ってるの。はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。わかるか?」

正直、暇な年寄りの物見遊山くらいに思っていました。そうか、今上天皇の慰霊の旅にはそんな「深謀遠慮」があったのか。小堀宮司ってエライな。ついでに、録音データを入手した本誌(週刊ポスト)もエライ。

戦略を口にするだけに、今上天皇の「公務」がどんな戦略において積み重ねられてきたか、慰霊の旅から生前退位まで、一貫した戦略として理解したんだな。映画「ショーシャンクの空に」の刑務所長のように。

「反骨の人」と今上天皇を呼ぶのはもちろんおかしな話だが、暮夜、ひそかにこの記事を閲覧して一人わずかな笑みを浮かべているお姿が目に浮かぶようだ。とは、匹夫下司の想像で、『シーシュポスの神話』のようなお心持で過ごされてきたのかもしれない。

いずれにしろ、「富田メモ」で、A級戦犯合祀を参拝取止めの理由として、その「本心」を側近に伝えてみせた昭和天皇の「浅慮」が浮かび上がってくる。小堀宮司が無視しているのも頷けます。

その人の事績を真に理解していたのは、好意好感をもって接している周囲の人々ではなく、憎き敵であったという話はたまに聞くが、ほんとうに、「事実は小説より奇なり」であります。

(止め)