ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

なんでも迫れる奥の広さ

2007-09-27 15:07:25 | 本・論文・雑誌

現在、中学校の理科(専門は生物)の先生をしている内山裕之氏から、本の感想をいただきましたので掲載します。内山氏(http://homepage2.nifty.com/hirouchi/)は大学時代の同級生。学年は一緒でしたが、学科は違い、私は化学でした。

医学博士になった大学時代の友人の武田さんが本を出した。「学びの即興劇」である。表紙にはタイトル以外にサブタイトルというかねらいを暗示させる「テーマを掘り下げ、人間関係を結ぶ」「環境問題を即興劇で学ぶ」「自分のからだ・自分のことばで表現し、深く理解するために」等の言葉が書かれてある。

この本を読んでの感想だが、私が中学校教師なので特別かもしれないが、とても面白かったし、役立つと感じた。なぜならば、この本は「学びの即興劇」というワークショップの実施方法が書かれていた。全部は無理にしても、子どもたちに使ってみたいと思う箇所がいくつかあったからだ。

さて、それでも少し違和感があるなと感じたことがある。それは表題の「環境問題を即興劇で学ぶ」というフレーズである。どうして環境問題なのだろう。環境問題でなくても良いのではないか。例えば、ジェンダーの問題、民族差別の問題、特別支援教育に関わる人権問題、食育の問題・・・・、なんでも、迫れる奥の広さが「学びの即興劇」の表現手法にはあるのではないか。読んでそう思った。

というのも、誰かが即興で環境問題の悪しき本質に迫ろうと演技をしたとする。その演技を真に迫るものにするには、その人はあらかじめ環境問題の核心部分を学んで憤りを感じていなければならない。とするならば、環境問題の直接的な学びの課題が別に必要である。即興劇によって具現化され表現されたものは、比喩であり引喩である。劇の中身は「たとえ話」または「イメージ」のようなもので、環境問題をよりわかりやすく理解する上では助けになっても、環境問題そのものではない。

別の言い方をすれば、即興劇と環境問題との関係は、自然と理科教科書との関係のようなものである。生徒は理科教科書を学ぶのに必死で、忘れがちだが、生徒が理科教科書を学ぶ理由は、教科書を通して自然を学ぶのである。教科書は自然ではない。原子記号やニュートンやジュール、モルの計算は自然の中を探しても、どこにも転がっていない。即興劇で環境問題の本質に迫るイメージは表現できても、それは環境問題そのものではない。生徒が環境問題を「学びの即興劇」によって理解を深めることができたとしても、環境問題そのものの学習がなければ、それは片手落ちである。

だから、環境問題だけをうたわず「学びの即興劇」の良さを啓発した方がよいように思う。つまり、即興劇の自己表現そのものの楽しさ、すごさである。これは歌やスポーツにも共通するものだと思う。自己表現することで、もやもやとした気持ちが改善され、すっきりする、つまりカタルシスである。この積み重ねによって自己実現が増え、きっと自尊感情(セルフエスティーム)まで高めると思った。また、和気あいあいとした雰囲気、お互いを認める雰囲気は、ライフスキルや共感能力の育成にもつながると感じた。

私もそう思います。私が環境問題をテーマに取り上げているのは、私はそれが今のところ大学からいただいたテーマであるからです。チャンスがあれば、色々なテーマに挑戦したいと思っています。HP(http://www.drama-ee.net/)の「ワークショップ」のページでは、他のテーマでのワークショップも書いていますので、参考にしていただければと思います。

附録:「学びの即興劇」の京都山科ワークショップに参加した感想だが、やはり即興劇はこう演じるんだよというモデルを示してほしかった。武田さんが全国にこの手法を広めて行くには、武田さん自身が即興劇を演じ、観客の心をほぐす(腹の底からの笑いとか共感から真剣に傾聴するとか)場面が必要だと思う。多くの人が映画を見に行くか、それとも吉本新喜劇を見に行くか、落語を見に行くか・・・・・その選択肢の中で「即興劇ワークショップ」を選んだのだから、良かった、面白かったと感じて帰っていただくことは大切だと思う。

Photo いろいろ書いたが、昔の友人だからあえて書いた。すごい取り組みには違いがない。

(写真:京都ワークショップより。「北山スギと大きく張った根」後方中央が内山氏)

ありがとうございます。私も、進行役自身が演じられればそれに越したことはないと思っています。「吉本新喜劇を見に行くか、落語を見に行くか」という選択肢の中で即興劇のワークショップに行く場合もあると思います。プレイバック・シアターやインプロは、私の中ではまさにそういう位置づけです。演じることを楽しんでいます。

「学びの即興劇」では何かテーマがあって、それを学ぶことが主になるので、演じることは単なる手段なのです。上手く演じよう、あるいは演じさせようとすることで、かえって肝心のテーマが抜けてしまうことも。でも、「演じる」と言うとどうしても「お芝居」の固定観念があるので、そこをどう取り払うか。う~ん! 「即興劇」と名づけるべきではなかったのか。でも、即興劇をするわけだし。う~ん! 悩む!

京都のワークショップで、私はそこをはっきり示すことができなかったのですね。つまり、何のために、今、演じようとしているのかということを。「感じてもらえるだろう」ではなく、はっきり言葉として示すべきでした。それが見えてきました。本当にありがとうございました。

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