ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

環境教育論―ESDをめぐって5人で大討論

2017-01-18 21:22:36 | 授業・教育
今日は環境教育論の授業最終日。

まず10分ほど、YouTubeでムヒカ大統領のリオ+20での演説を聞きました。
これはプリントにして読んでくることを宿題にしてありました。

印象に残ったところ、良い悪いではなく、好き好きじゃないと思ったところを出し合って話し合っていきました。

「命より高価なものはない」というところが好きだった、と。
それに対して、「これまでの経験からそう思ったことってあった?」と尋ねると、「身近な人が亡くなったという経験はない」とか言いつつも「交通事故にあって、その時はパニックになったけど、落ち着いたら誰もケガしなくて良かった。もし誰かを轢いていたらお金で償えないと思った」などの経験が出てきました。

「発展途上国が先進国並みに大量生産・大量消費することが限られた資源の中で可能なのでしょうか」という問い。
私たちは、これ以上消費を増やさないという選択ができるのか?どういう選択ならできるのか?

「豊な消費、ローンのために働き続けるのが幸せなのか」という問いから、教員の働き過ぎの問題に話は発展しました。教員を目指す人たちだから。制度を変えないと変わらない。ムヒカ大統領の言うように政治の問題だ。でもその政治家を私たちが選んでいるのでは?個人でできることはないのか?働き過ぎるのは、仕事以外の充実した過ごし方を知らないからではないか。働く側の意識も変えていかなくてはいけないのでは?

話に熱中して、気がついたらあと5分。
受講生4人と私。たったこれだけの人数でしたが、充実した話し合いでした。

話は1月15日に遡るのですが、この日大雪で電車が大幅に遅れ、遅刻しながらも即興型教育研究会に参加。

午前はすぅさんのワークショップと上條先生によるその協働的リフレクション、
午後はがめらのワークショップと上條先生による協働的リフレクション、という2本だて。
ワークショップそのものがとても面白いものでした。

リフレクションには、参加者約30人の半分が加わり、残りの人はフィッシュボール形式で見守り役。

リフレクションとは何か、どういうもので、どうすればよいのかを考えさせられる、刺激的な経験でした。

今も参加者どうしてfacebook上の対話が続いています。
その対話も含めて、私が納得したのは…

「どう思いますか」では話が深まらないということ。
それをこれまで私は何回も繰り返してきて、「なんで話が深まらないんだろう」と思っていたわけです。
自分の意見は言うけれど、意見を重ね合うということをしない。
自己完結しようとする。他人の意見を聞いているように見せかけて実は寄せ付けない。
学生たちは、まわりと軋轢が起きないように厳しく防御しているのです。

「ここでは何でも言えるんだ」という場をどうしたらつくれるのか…。
このことに意識がありました。

で、このリフレクションを通して思ったのは、

「良い」はひとつの価値判断であり、「おもしろい」「好き」は自分の心の動きである。
「良い」というと主語が「あなた」になりがちで「おもしろい」「好き」は主語が「わたし」になる。
「あなた」で言われると言われた人は防御的になることもある。けど、その人にとってある種「内省」は生まれるかもしれない。
一般論になると「あなた」も「わたし」も深まらない。

私たちは普段、一般論でいいと思うことを発言しがち。これも防御なんですね。
だから「わたしは」と自分を主語にして考えたり感じたりすることが大事ってこと。
アサーションとも通じます。

そういった内省的言語を聴き合うことで、そこに居合わせた人たちのリフレクションが深まっていく。

加えて、「反省でなく、ふりかえりでなく、内省でなく、省察を!」の意味と、「省察には協働が必要」の意味が腑に落ちました。

だから今日は学生に「どう思う?」ではなく「どこが好きだった?」と聞いてみたのです。
そして「なぜ?」「何かそれと関わる経験がある?」と。

今日はそれが良かった。人数が少ないことも幸いでした。
これからも実践して検証してみよう。

この間、悩みぬいてきた「リフレクション」だけれど、少しずつ自分のものになりつつある気がします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする