「演じること」と「教育」に関心をもつ若手研究者の交流に首をつっこんでいます。昨夜、ようやくメンバー4人の日程が合ってzoomで懇談。予定の90分は本当に楽しくて、あっという間でした。
2023年3月にWSをすることも決まりました。
これからは、まずはお互いWSでやりたいことを出してみることから。
何かいろいろ心に引っかかることが話されていたのに、録音しなかったことが本当に残念!
なので少しここに書いておきます。
*****
その話し合いで共創学会があると聞いて、HPを見た。
役員メンバーが多彩で、私はコミュニケーションの共創モデルについて、けっこう狭い理解でしかないのだろうな、と思った。
私の単純な頭ですっきり理解できる概念ではなさそうだ。
一方で共創という概念が確立していくのはこれからなのかも、とも思う。
演じるということの多相性(多層性)は、観られているということがどう関係するのか。
話し合う中で、その意識が登ってくる。
話し合う面白さがここにある。それまで見えてなかった視点が見えてくる。
見せること、観られていることを意識するのかどうかで、「演じること」の違った相(層)が現れる。
Kさんの、子どもたちの演技は親たちが観に来る本番にいつもと違う表現が現れる話。
あるいは、本人はマイクを持って立っているだけでも、まわりの状況によって「歌って楽しかった」と言えること。
Gさんの石になっている子どもの話。それは演技と言えるのか。他者によって「石になっている」と認識されたときにそれは演技と言えるようになるのか。
Kさんから、日常を「演じている」という話があった。演じているという意識があれば、それは演技なのだろうと思う。「むしろ日常と関係ない場が設定されて演じるときこそ、自分らしさが出せる」とすると、ここでも観ることと関係する 相(層) の違いというものがあるのかもしれない。
私自身の体験を思い出した。
5歳頃だろうか。引っ越したばかりで友達もなく、庭に積んだ小石で遊んでいた。
畑にするために、父が掘り起こした土から出たもの。
そこには小人が隠れていて、何やら私に話しかけてくるのだった。
友だちができてからは、小人と遊んだ記憶はない。
なぜ物覚えの悪い私が小人ごっこを覚えているかというと、絵日記を書いたから。
後に思い出す機会があったのだ。
この時の私は演じていたのだろうか。
小人が本当にいると思っていたわけではない。
子どもはごっこ遊びで役をとるが、そのときたいていやりとりする誰かがいる。
けれど、時には自分ひとりで何かになることに没頭しているときもある。
「演じる」とは、どういうことだろう。
私たちはドラマワークショップをするとき、場をどう形成するのかということにとても気を配る。それは、演じるということに、「それを受け止める人たち」が欠かせないからではないだろうか。「演じる」ということがその表現を受け止める人たちと無関係には存在しないことを、昨夜、改めて考えさせられた。
そして、私の狭い理解の範囲だが、共創モデルは表現を「受け止めたい」「受けとめてほしい
」という双方の思いなしには成立しないのではないか、とも思った。
先日、プレイバック・シアターの羽地朝和さん、コミュニケーション・アーツの岩橋由莉さん、津田塾大学の吉田真理子さんと4人で、zoomでそれぞれがどうして「演じる」ということに関わることになったのかを話したが、これもメチャクチャ面白かった。
その時、私は沖縄国際大学でドラマを用いて授業を始めたことを話したが、あの頃、特に最初の何年か、私自身が試行錯誤で手探りだったのに、学生たちはその授業を楽しんでくれた。自分たちが授業する番になると、夜中12時にバイトを終えてそれから集まって相談したりしていた。
立命に移ると、学生はメールなどでちゃちゃっと打ち合わせして、それでもちゃんと形にする。でも最初に立命の学生に出会っていたら、『学びの即興劇』の本は書けなかったかもしれない。
芸能に親しんでいる沖縄の学生たちのもつ文化の違いなどが影響しただろうけれど、「演じる」ことにたいする素直さが違う気がした。
それに対して羽地さんから、「自身が手探りだったことが良かったのではないか」という指摘があった。羽地さんも、リーダー研修1期生にはやはり講座を一緒に作ったという感じがある、と。私はその1期生だった。前例となるモデルがないこと、教師も権威者や経験者としてではなく迷いながら新しいものをつくろうとしていること。こういういわば対等な関係が、共創を生み出しやすいのかもしれない。
*****
共創が何かも良く分からないのに、そんなことを考えました。
「演じる」ことは、書き言葉や話し言葉だけではない体が伴う。そういった言語の広がりが意味を持つのかもしれません。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』で、異星人と出会った主人公ライランドが共通言語獲得していく過程は、まずお互いの動作を真似ることから始まる。
そして科学者同士として、同じ現象を同じように理解できるはずという唯物論と相手に対する信頼。
この過程は、共創モデルではないだろうか。
と、また共創に結びつけてしまう。知らないくせに。マイブームなんだなあ!
2023年3月にWSをすることも決まりました。
これからは、まずはお互いWSでやりたいことを出してみることから。
何かいろいろ心に引っかかることが話されていたのに、録音しなかったことが本当に残念!
なので少しここに書いておきます。
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その話し合いで共創学会があると聞いて、HPを見た。
役員メンバーが多彩で、私はコミュニケーションの共創モデルについて、けっこう狭い理解でしかないのだろうな、と思った。
私の単純な頭ですっきり理解できる概念ではなさそうだ。
一方で共創という概念が確立していくのはこれからなのかも、とも思う。
演じるということの多相性(多層性)は、観られているということがどう関係するのか。
話し合う中で、その意識が登ってくる。
話し合う面白さがここにある。それまで見えてなかった視点が見えてくる。
見せること、観られていることを意識するのかどうかで、「演じること」の違った相(層)が現れる。
Kさんの、子どもたちの演技は親たちが観に来る本番にいつもと違う表現が現れる話。
あるいは、本人はマイクを持って立っているだけでも、まわりの状況によって「歌って楽しかった」と言えること。
Gさんの石になっている子どもの話。それは演技と言えるのか。他者によって「石になっている」と認識されたときにそれは演技と言えるようになるのか。
Kさんから、日常を「演じている」という話があった。演じているという意識があれば、それは演技なのだろうと思う。「むしろ日常と関係ない場が設定されて演じるときこそ、自分らしさが出せる」とすると、ここでも観ることと関係する 相(層) の違いというものがあるのかもしれない。
私自身の体験を思い出した。
5歳頃だろうか。引っ越したばかりで友達もなく、庭に積んだ小石で遊んでいた。
畑にするために、父が掘り起こした土から出たもの。
そこには小人が隠れていて、何やら私に話しかけてくるのだった。
友だちができてからは、小人と遊んだ記憶はない。
なぜ物覚えの悪い私が小人ごっこを覚えているかというと、絵日記を書いたから。
後に思い出す機会があったのだ。
この時の私は演じていたのだろうか。
小人が本当にいると思っていたわけではない。
子どもはごっこ遊びで役をとるが、そのときたいていやりとりする誰かがいる。
けれど、時には自分ひとりで何かになることに没頭しているときもある。
「演じる」とは、どういうことだろう。
私たちはドラマワークショップをするとき、場をどう形成するのかということにとても気を配る。それは、演じるということに、「それを受け止める人たち」が欠かせないからではないだろうか。「演じる」ということがその表現を受け止める人たちと無関係には存在しないことを、昨夜、改めて考えさせられた。
そして、私の狭い理解の範囲だが、共創モデルは表現を「受け止めたい」「受けとめてほしい
」という双方の思いなしには成立しないのではないか、とも思った。
先日、プレイバック・シアターの羽地朝和さん、コミュニケーション・アーツの岩橋由莉さん、津田塾大学の吉田真理子さんと4人で、zoomでそれぞれがどうして「演じる」ということに関わることになったのかを話したが、これもメチャクチャ面白かった。
その時、私は沖縄国際大学でドラマを用いて授業を始めたことを話したが、あの頃、特に最初の何年か、私自身が試行錯誤で手探りだったのに、学生たちはその授業を楽しんでくれた。自分たちが授業する番になると、夜中12時にバイトを終えてそれから集まって相談したりしていた。
立命に移ると、学生はメールなどでちゃちゃっと打ち合わせして、それでもちゃんと形にする。でも最初に立命の学生に出会っていたら、『学びの即興劇』の本は書けなかったかもしれない。
芸能に親しんでいる沖縄の学生たちのもつ文化の違いなどが影響しただろうけれど、「演じる」ことにたいする素直さが違う気がした。
それに対して羽地さんから、「自身が手探りだったことが良かったのではないか」という指摘があった。羽地さんも、リーダー研修1期生にはやはり講座を一緒に作ったという感じがある、と。私はその1期生だった。前例となるモデルがないこと、教師も権威者や経験者としてではなく迷いながら新しいものをつくろうとしていること。こういういわば対等な関係が、共創を生み出しやすいのかもしれない。
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共創が何かも良く分からないのに、そんなことを考えました。
「演じる」ことは、書き言葉や話し言葉だけではない体が伴う。そういった言語の広がりが意味を持つのかもしれません。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』で、異星人と出会った主人公ライランドが共通言語獲得していく過程は、まずお互いの動作を真似ることから始まる。
そして科学者同士として、同じ現象を同じように理解できるはずという唯物論と相手に対する信頼。
この過程は、共創モデルではないだろうか。
と、また共創に結びつけてしまう。知らないくせに。マイブームなんだなあ!