ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

「なる」と「擬人化」

2025-02-02 07:18:50 | 芸術およびコミュニケーション
「演じる」を語る研究会
アラフォー?の女性4人に加えてもらっている

先日、「なる」と「擬人化」が話題になった。
Gさんはあるゲームの中で子どもが「石になった」ことを例に「演じる」ということと「なる」ということを言語化しようとしている

Kさんが自分の主宰しているワークショップで
参加者が絵を描いてその一枚をみんなで演じた例を報告した
想像上の花と、そのまわりの動物たち

食虫植物のその花は昆虫を食べたりするのだが
どの動物も最後は花と友だちになった

その話の時
「なる」と「擬人化」は違うよね
ということをSさんが言い出した

そこで思い出したのが以前に参加したワークショップだった
雄と雌の鹿が鳴きかわすという琴の曲を鑑賞するために
鹿になってみる身体活動があった
それは本当に鹿の動きを再現するために
徹底的に体を動かす活動だった
日頃やったこともない、柔軟性がなければとてもできない動きを求められた
講師は「体の硬い人は頭も硬い」と言った

私はそのワークに反発心しかなく
何かを学んだ気もしなかった

しばらくの休憩の後、琴の曲を聴く
鹿の体になってみたのだから、鹿の気持ちになって聴いてみよう
という

私は言った
実際の鹿の雌雄はこんな風に鳴きかわさない
この曲は鹿に人の気持ちを託しているのであって
鹿そのものではない


そのあと、議論がどのように展開したかはあまりよく覚えていない
けれどワークショップを担当した人からは
嫌われたように思う

今から思えば言葉足らずだった
私は「なる」ことと「擬人化」は違うと言いたかったのだ
今なら言語化できる
それを混同してしまっては、作品理解に繋がらない

Kさんは言う
「擬人化して演じるのは楽しい
でも『なる』って楽しいのかな」
これまた面白い問いだ
また話題になることがあるだろう


役者の演技も「なる」と「擬人化」があるように思う

「なる」ときはそのものになろうとするため
そのものについて情報やそれをめぐる状況・環境について知っていることが必要
「擬人化」は他者の姿を借りた自分
そのものについての情報はあまり必要ない
他者の姿を借りているために、思いがけない自分が出てきたりする

とまあ書いては見たが、あちらかこちらかそんなに簡単に分けられないのが人間
けれど私たちが演技にリアリティを感じるときはおそらく「なっている」時なのだろう
「なる」上にさらにプロのテクニックが乗っているのだろうと思う

研究会は発足から1年以上が過ぎ
一度この研究会を公開してみようということになった
3月23日ズームにて
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