ドラマのとびら

即興の劇や身体表現で学ぶ、教える、浮き沈みの日々とその後

高校の同級生たち

2014-04-12 20:41:48 | 日記・エッセイ・コラム

高校3年のときのクラスで三年に一度同窓会をしています。

その合間にも、何人かで会ったりしますが、昨日は突然「今日の7時半に」という連絡が。
幸い場所が家の近くだったので、参加。

高校の同級生と話すとき、いつも思うのは、個性豊かな人たちだということ。

蜷川府政の時代。高校三原則と言って、職業科と普通科が一緒になった総合制、地域で通う高校が決まる小学区制、男女共学でした。

なので同級生はエリート集団でもなければ、その反対でもない。いろいろ。
その「いろいろ」がおもしろい。

最近、お酒を飲むと翌日頭が痛くて大変なのですが、今回は楽しく飲んで、帰ってぐっすり寝て、今日はさわやかに目覚めました。
同級生はありがたいなぁ。

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整理2

2014-04-11 19:05:19 | 日記・エッセイ・コラム

2014

久しぶりに衣替えなるものを実施。
(「年に2回するものじゃなかった?」「かもしれないけれど、3年ぶりかな」)

「抽斗の衣類などは、抽斗の大きさに合わせて立てて収納すべし」を実践してみました。
おお、美しい!

って、これまでどうしてたのよ・・・。
いまさら「ちゃんとしつけなかった親が悪い」なんて言えないし・・・。

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整理1

2014-04-10 19:58:19 | 日記・エッセイ・コラム

windowsXPのサポート終了にあわせて、古いパソコンからvistaのノートパソコンにデータを移動。

そのためにvistaのパソコンのデータをまず整理しようと思い立ちました。
Cドライブがいっぱいなので、どうしたら減らせるかと探ってみると、ownerの‘ダウンロード’にいろいろ入っていることが判明。

獲得研のMLで「画像をダウンロードしたのに見られません」と書いたら、T先生が「‘ダウンロード’のフォルダに入っているはず」と教えてくださったけれど、これだったのか!

やっと意味がわかりました。
おかげでパソコンがすっきりしました!
切り替えに間に合った!

なんだか働きが良くなった気がするけど、これって単なる気のせい?

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『ドラマと学びの場』ついに完成!

2014-04-08 17:42:56 | 本・論文・雑誌

Img_0002

ドラマワークショップ&シンポジウム「ドラマを通して教育をみる~学ぶ場ってなんだろう」(2012年6月)に参加してくださったみなさん。

やっと完成しました。
すでにお手元に届いたでしょうか。申込みいただいた方は、もうすぐ届くはずです。

4月4日に完成しました。翌日には「届きました」の連絡が何人かの方から・・・。

ところが、いろいろ事情があって私には昨日(7日)に到着。
届いて良かった。

なかなかユニークな本です。

お申し込みは、晩成書房http://www.bansei.co.jp/まで。
事情があって、ネット書店への掲載には少し時間がかかります。

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「演じる」ということ

2014-04-02 10:17:35 | 日記・エッセイ・コラム

3月31日でもって退職。退職祝いに花束を3回もらいましたが、花束をいただくのはいつも嬉しいことです。

昨日からは新たに継続雇用として働くことに。仕事半分、給料半分というのは、今の私の生活スタイルに合っています。これからは、もう少しブログをまじめに更新します。

さて、今日は「演じる」ということについて。
私は「ドラマ」について「誰かまたは何かになること」と定義しています。

昨年12月21日の新聞に、俳優の古舘寛治氏がニューヨークの伝統ある演技学校で学んだ大事なことは「演じないこと」と述べています。「演じて、自分でない誰かになろうとするのではなく、自分のままでいる」と。

「なるほどね」と思いました。

なぜなら、プレイバック・シアターでアクターをするとき、役が降ってくることがあるから。
まるでその役が自分であるかのように、自然に動いてしまう。そういうときには、観る人にも伝わるようです。

演じるために必要なのは架空の状況に入ったり、そこから出たりすることが自由にできることではないかと思います。架空の状況の中で自分のままに生きられたら、それは生きた演技となるのでしょう。

先ほどの古舘氏のことばを私流に解釈すると、「誰かまたは何かになる」というときに、その役になろうとすることよりも、その状況を想像する能力が大切ということではないでしょうか。その状況を豊かに想像できる人が、名優となるのではないかと思います。

この間、ワークショップをしたり原稿を書いたりしている過程の中で、「役と自分の関係」ということが話題になりました。

ある先生いわく。
「なる」なんて実際にはできない。学生が「なりきれなかった」と言ったりするが、なりきれるはずもなく、なりきる必要もないということを学生に言う。
役と自分との距離が大切で、自分の役を客観的に「異化」できる距離が必要・・・と。

こういう話が出てきたきっかけは、同化しすぎることによって、心理的なダメージをうけることがあるからです。

それが過酷な状況であれば、想像とは言え、過酷な体験をするわけです。
だから、想像した状況に自由に入ったり出たりできる必要がある。
現実の自分は安全な場所にいるという認識が必要です。

つまり、同化と異化との往還が必要。「同化」することで心理的な問題がおこるというより、そこから「異化」できないときに問題が起こるのではと思うのです。

私の実施しているドラマ教育では名優を育てることを目的としていません。逆に、なってみることを通して、状況が想像できればよいのです。そこが、演じることを目的とする場合との違いかもしれません。

コメント (2)
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