極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

時計草×1Q84(Ⅰ)

2009年06月20日 | 時事書評


腑に落ちぬ文字の合間の時計草 もっとラルゴと1Q84
 

渚にて On the Beach (1959)

『第20章「天吾」の気の毒なギリヤーク人』までは例の
ごとく、ちょっとついていけない‘春樹展開’がありそれ
はそれで自己流ピックアップ法で読み解いていくが、しっ
くりいかない。

 ふかえりの普段のしゃべり方は平板そのもので、アク
 セントやイントネーションがほとんど聞き取れないの
 だが、物語を語り始めると、その声は驚くほど力強く、
 また豊かにカラフルになった。まるで何かが彼女に乗
 り移ったようにさえ思えた。1185五年に関門海峡
 で行われた壮絶な海上の合戦の有様が、そこに鮮やか
 に蘇った。平氏の敗北はもはや決定的になり、清盛の
 妻時子は幼い安徳天皇を抱いて入水する。女官たちも
 東国武士の手に落ちることをきらってそれに続く。知
 盛は悲痛な思いを押し隠し、冗談めかして女官たちに
 自害を促しているのだ。このままではあなた方は生き
 地獄を味わうことになる。ここで自ら命を絶った方が
 いい。

ふかえりの驚くほどに『平家物語』を朗読するシーンだ。
これまでも、いろいろな鍵語らしき言葉が
ビザンティン
のモダイク絵の如く埋め込まれる。例えば、ギリヤーク
人もその典型だ。太田和親『
和親記』によれば、「ギリヤ

ファイル:Ur lyre.jpg

 Nicomachean Ethics

ク人はかつて7~13世紀頃に、知床半島あたりからオホ
ーツク沿岸、樺太、沿海州のアムール河河口にかけて住ん
でおり、オホーツク文化人として羅臼などに遺跡を残した
が、その後はアイヌ人に押されて北海道オホーツク沿岸か
らは消えてしまった。彼らはおそらくアイヌのユカラ(英
雄叙事詩)に出てくるレプンクル(沖の人)で、昔、アイ
ヌ人と戦った人々あろう。坂上田村麻呂の時代、青森のあ
たりの海岸に逃げてきた北海道のアイヌ人たちが、坂上田
村麻呂たちに、異民族(ギリヤーク人と思われる)が北か
ら攻めてきたので難を逃れてここまで南下して来たのだと、
話したことが記録に残っている」とされる。これでは、忠
実な‘ハルキスト’は読み終えるまでに疲弊してしまう?


 Oliver Twist


 「もっとつづける」とふかえりが訊いた。
 「いや、そのへんでいい。ありがとう」と天吾は呆然
 としたまま言った。新間記者たちが言葉を失った気持
 ちは、天吾にもよくわかった。
 「しかし、どうやってそんなに長い文章が記憶できる
 んだろう」
 「テープでなんどもきいた」
 「テープで何度も聞いても、普通の人間にはとても覚
 えられない」と天吾は言った。
 それから彼はふと思った。この少女は本が読めないぶ
 ん、耳で聞き取ったことをそのまま記憶する能力が、
 人並み外れて発達しているのではないだろうか。サヴ
 ァン症候群の子供たちが、膨大な視覚情報を瞬時にそ
 のまま記憶に取り込むことができるのと同じように。
 「ホンをよんでほしい」とふかえりは言った。
 「どんな本がいいのかな?」
 「センセイとさっきはなしていたホンはある」とふか
 えりは尋ねた。
 「ビッグ・ブラザのでてくるホン」
 「『
1984年』か。いや、ここにはない」
 「どんなはなし」


 Das wohltemperierte Clavier

Bach - Matthaeus Passion - 01 Matthaus-Passion/BWV244

 天吾は小説の筋を思い出した。「ずいぶん昔、学校の
 図書館で読んだだけだから、細かい部分はよく覚えて
 いないけど、とにかくその本が出版されたのは194
 9年で、その時点では1984年は遠い未来だった」
 「ことしのこと」
 「そう、今年がちょうど1984年だ。未来もいつか
 は現実になる。そしてそれはすぐに過去になってしま
 う。ジョーン・オーウェルはその小説の中で、未来を
 全体主義に支配された暗い社会として描いた。人々は
 ビッグ・ブラザーという独裁者によって厳しく管理さ
 れている。情報は制限され、歴史は休むことなく書き
 換えられる。主人公は役所に勤めて、たしか言葉を書

チャンネル アイコン  映画『1984年』

 き換える部署で仕事をしているんだ。新しい歴史が作
 られると、古い歴史はすべて廃棄される。それにあわ
 せて言葉も作り替えられ、今ある言葉も意味が変更さ
 れていく。歴史はあまりにも頻繁に書き換えられてい
 るために、そのうちに何が真実だか誰にもわからなく
 なってしまう。誰が敵で誰が味方なのかもわからなく
 なってくる。そんな話だよ」
 「レキシをかきかえる」
 「正しい歴史を奪うことは、人格の一部を奪うのと同
 じことなんだ。それは犯罪だ」
 ふかえりはしばらくそれについて考えていた。
 「僕らの記憶は、個人的な記憶と、集合的な記憶を合
 わせて作り上げられている」と天吾は言った。

カクテル画像:トム・コリンズ

 「その二つは密接に絡み合っている。そして歴史とは
 集合的な記憶のことなんだ。それを奪われると、ある
 いは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持して
 いくことができなくなる
 「あなたもかきかえている」
 天吾は笑ってワインを1ロ飲んだ。「僕は君の小説に
 便宜的に手を入れただけだ。歴史を書き換えるのとは
 ずいぶん話が違う」

 French wine

 
「でもそのビッグ・ブラザのホンはいまここにない」
 と彼女は尋ねた。
 「残念ながら。だから読んであげることはできない」
 「ほかのホンでもいい」
 天吾は本棚の前に行って、書物の背表紙を眺めた。こ
 れまでに多くの本を読んできたが、所有する本の数は
 少ない。何によらず自分の住まいに多くのものを置く
 のが好きではなかった。だから読み終えた本は特別な
 ものを別にして、古本屋に持っていった。すぐに読め
 る本だけを買うようにしたし、大事な本は熟読して頭
 にたたき込んだ。それ以外の必要な本は近所にある図
 書館で借りて読む。



本文中の「ビッグ・ブラザー」「ビッグ・ブラザ」の微妙
な表記にもわれわれ‘ハルキスト’は気遣いしなければな
らないほどの張り詰めた読書を続ける嵌めになり、小説
『1Q94(Ⅰ)』は終わる。そしてこれから小説『1Q
94(Ⅱ)』を彼女の介護カーで買いに走ることとなる。

サハリン州の位置  ファイル:Sakhalin (detail).PNG 

 
Chekhov,Anton Pavlovich Saghalien [or Sakhalin] Island (1891-1895)




トケイソウ(時計草)とはトケイソウ科・トケイソウ属(
Passiflora)に分類され、狭義には Passiflora caerulea と言う種
の和名である。種の数は約 500、栽培品種はそれらが掛け
合わされてできるためさらに数が多い。ブラジル原産の「
トケイソウ」。花言葉は「神聖な恋」。



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