極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

蛍袋は沈黙の艦隊

2009年06月22日 | 時事書評



時として手をだすことの後悔を 蛍袋に閉じこめるきみ




ホタルブクロ(蛍袋)とは、キキョウ科の多年草。初夏に
大きな釣り鐘状の花を咲かせる。開けたやや乾燥した草原
や道ばたなどによく見られる草本で、全体に毛が生えてい
る。根出葉は長い柄があり、葉身はハート形。匍匐枝を横
に出して増殖する。最大80cmくらいにまでなり、数個の釣
り鐘型の花を穂状につける。花は柄があって、うつむいて
咲く。花色には赤紫と白とがあり、関東では赤紫が、関西
では白が多い。ホタルブクロの学名はCampanula punctata Lam.



介護の母親と諍いがあったのか、顔合わせるなり嫌みを言
われる。そのことを彼女に問うと原因はあった。『沈黙は
金なり』と歌う。大型の花「ホタルブクロ」。花言葉は「
正義」「貞節」。




ぼくが真実を口にすれば、ほとんど全世界を凍らせてしま
うだろう、という妄想によって、ぼくは廃人であるそうだ

               吉本隆明『廃人の詩』

ジャングル大帝 1

90年代の現在を読み解く読書論として「ビジネス書」が
その中核にあった。2000年代初頭のそれは「マンガ・
アニメ」であることを正々堂々と主張した本が上梓された。
吉本隆明著『全マンガ論』がそれであり、村上春樹著の
『1Q84』のヒットを凌ぐ質感をもった待望の本かもし
れない。


沈黙の艦隊 1巻  youtube

【かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』】

 こういった断片をつなぎあわせると、海江田艦長の原
 潜独立国家「やまと」(シーバット」)の理念が浮か
 んでくる。それはまたこの作品の理念だといってよい。
 もし加すると幾分かの度合で作者加わぐちかいじの理
 念だと受けとることもできる。なぜかというと現在、
 中東問題の発生を契機に、すでにこれとおなじような
 発言が、雑誌にあらわれはじめているからだ。すこし
 まじめに、わたしの理念を、この『沈黙の艦隊』の理
 念に対置させてみる。 


 わたしなら人間の尊厳と国家の尊厳とは、とことんま
 で問いつめていけば両立しないとおもっている。だか
 ら人間の尊厳が第一で、これが実現するためには、国
 家はゆるやかに開かれ、やがてなくなっていくように
 もっていくより仕方がないとかんがえる。また人間の
 完全な自立と民族の完全な自立も、最後には両立しな
 いとおもう。だから完全な自立が実現されるには、民
 族という概念も、民族の自立という概念も捨てさるよ
 りほかないとおもっている。その意味では、主人公海
 江田を艦長とする独立国家「やまと」の国家理念はだ
 めだろうとおもう。でも米ソは莫大な経済力を軍備に
 無駄に注いでいる時代遅れの大国だという主人公海江
 田の認識には、わたしは賛同する。こういう時代遅れ
 の大国が、軍事力にものをいわせて他国に侵攻したり、
 自国の民衆を弾圧したり、民族独立をモットーにする
 後進を抑圧したりしたら、武力ではねかえし、撃滅す
 るという力も発想もないが、理念でもって撃滅したい
 といつでもかんがえている。だから主人公海江田の考
 え方は、武力という点を除けばわたしはとても興味ぶ
 かかった。ある意味では原潜「やまと」を象徴的な暗
 喩として、自分の理念が象徴されているようで、とて
 も愉しかった。理念のイメージを追いかけるとき、ソ
 連政府の崩壊と混迷のあと、世界の指導国家の顔を一
 段と強く打ちだして中東問題に介入しているアメリカ
 や、ほんとはとことんまで民衆に否認されているのも
 自省せずに、自国の民衆を武力で威嚇したり、ソ連邦
 をはなれて自立したい共和国(とくにバルト三国)の
 民衆を武力で弾圧したりしているソ連が、いちばん障
 害におもえる。そして知識人の世界といえばソ連のシ
 ンパか、その反対にアメリカのシンパのふた色しかな
 いような、個性も特色もない日本も、どこかで根底か
 ら転倒されるときがあるべきだとかんがえている。だ
 から、原潜「やまと」をひとつの自立的な理念の象徴
 として読み、潜水艦による海底と海中の海戦の戦略の
 かわりに、眼にみえない理念の戦いをイメージにおけ
 ば、わたしも海江田四郎のように戦ってきたし、これ
 からも戦いたいとおもった。この劇画を受けとるとす
 れば、そこで受けとってとても共感した。


長々と引用してしまったのは、国家戦争という共同体の硬
直した心象がパワーとして動き出すときの恍惚感や残忍性
を透視し本質をつかみ取る、格好のアニメと思想家吉本の
コラボを紹介したかったのだ。





  「この森も王蟲の子も砂も水も
  みんな本当に存在してます」
  「ここへ案内するために
  あなたの内なる森が
  入口として必要でした」

             『谷の中のナウシカ』


【パラ・イメージ論】

 なぜかといえば、文学作品がどんな自意識の手でつ
 くられても、いつも無意識の達成をふくんでいる
 そしてちょうどおなじところで、おなじ度合で、意
 味の流れであるはずの言葉が像をよびおこしてしま
 うのだ。そこで書き手の主観的なおもいいれは、い
 つもいくぶんかは意図と実現のくいちがいにさらさ
 れる運命にあるといっていい。これが文学というこ
 との意味なのだ(中略)言葉の概念と像のあいだに
 内から連関があり、しかも概念の強度が減衰するの
 と言葉の像が出現するのとが逆立するようにかかわ
 っていることを前提にしてみる。すると入眠状態あ
 るいは夢の状態がいちばんこれにちかいことがわか
 る。この入眠または夢の状態は、ひとつの極限とし
 て、ちょうど無意識の独り言が音声をともなわない
 でつぶやかれている状態になぞらえられる(この状
 態がそのまま像になってあらわれると、文字や活字
 を無声のまま読んでいる夢のあらわれ方になる)。



 これとまったく逆の極限をかんがえれば、像が場面
 ごとに不連続で、意味の流れなどとうていたどれな
 かったり、前後がアト・ランダムで流れなかったり、
 まったく荒唐無稽になってしまうばあいがありうる。
 でもどのばあいも、像が連続している状態を、無意
 識に実現している。そんな形が想定される。文学作
 品の言葉がある場面で像をよびおこしているとき、
 言葉はこのふたつの極限を境界にして、その内がわ
 にある帯のどこかに位置づけられるとおもえる。そ
 の位置は言葉の概念が意味の流れとしてさしだすも
 のを減衰させはするが、それの代償としてかすかな
 像を表わしている状態だ。この位置はたぶん指定す
 ることができる。

 島尾敏雄著『夢の中での日常』

ここでは、『言葉の概念と像の位置の関係』が書かれてい
ないので説明への説得性がなくなっているが上位の「概念」
の位置と下位の「視覚像」に2つの着想点(オルト、メタ)
を想定しそれぞれの着想点に連結線を結んだ上、その対角
線の関係-ここで、視覚像(映像)はパラの順位付けを行
った上、概念側のオルト位置(言葉の像=夢・入眠状態の
言葉)を論じている。そして島尾敏雄著『夢の中での日常』
を媒体に、いわば概念-映像軸にしてメタの写像位置にオ
ルト-パラ位置(虚像?と表現する脱・視覚器官の言葉領
域を想定して終わる(ここが難解だ。意味不明ではない難
解さとでもいえる難解さだ ^^;)。

AKIRA 3/15 (Japanese dub) AKIRA

【表現としてのマンガ・アニメと文学】


 アニメはどういうものを生み出しても、どういう交換
 価値を生み出しても、人間以上のものをどこまでも拡
 張していっていいのか、それとも限界があるのか、想
 像力でも空想力でも、どこまでも伸ばしていっていい
 のかということに、ぼくなんかはいつでも疑問がある
 んです。人間には生命の限界はあるけれど、遺伝子は
 伝わっていくとマルクスはいっていますが、それも怪
 しいんじゃないか。平均寿命は延び続けていて、減少
 したということは今までないんですね。じゃあ、なん
 で人間は百年足らずで生命が終わるといえるのか、そ
 れも径しいんじゃないかと。


 

鹿島みゆき(左),若松みゆき(右)


 先日深夜テレビをみていたら、ある学者が人間の命は
 五百年ぐらい延ばすことが、可能だといっていたんで
 す。それもありえないことじゃないって。なぜそうし
 ないかというと、倫理問題がからんでくるんだと、そ
 ういうことをいっていました。そういう話を間くと、
 アニメというのは、ありえない空想をしているんじゃ
 ない、フィクションを超えて空想力想像力の産物とい
 うのは、かなり遠くまで行っているんだと受けとめま
 したけどね。目の作用というか、みることの世界では、
 人間の考えというものはどこまでも延長可能なんだと、
 そう思いました。 

[表紙]『ねじ式・紅い花』


 最近体験したことですが、しゃべる言葉の運命と書く
 言葉の運命というのは、日本語と外国語くらい違うん
 じゃないかと思えるようになりました。しゃべり言葉
 と書く言葉は質が遠うんだと考えたほうがいいんじゃ
 ないかと(中略)たとえばアニメにしても、軽くみて
 いたらとんでもない錯覚をしていたな、アニメという
 のは、書く世界とまるで違うということを、徹底的に
 考えた
ほうがいいのかなと。僕は詩を書いていて、詩
 は文学であるとはなかなか一ロではいえなかったんだ
 けど、詩は短くても現代そのもので、やろうと思えば
 そのまんまでグローバルな文学になるんだという人も
 います。それは詩を書く人でも前衛的な人で、吉岡実
 さんなどは同世代ではそういう人ですね。丸や点だけ
 で、それを文字の意味として詩的な表現をする詩人も、
 僕だちより若い世代にはいます。

 

 そうした文芸作品と共通点がわかりやすくていい作品
 だと思うのは、たとえば初期の萩尾望都さんのもので
 す。萩尾さんのものは、純文学の作品としてみても、
 自然にみられました。萩尾さんの作品は、純文学だと
 いってもいいんじやないでしょうか。小説と同じよう
 に読めて、いちばん素直に感じられたのはあの「24年
 組」という言葉が登場した時代のものですね。三羽鳥
 じやないけれど、竹宮恵子さんと大島弓子さんもあの
 頃がいちばんそうだなって思います。それに、僕の作
 品に固有な意味をつけてくれたなと思ったのは、岡田
 史子さんの作品でした。「ぼくが真実を口にするとほ
 とんど全世界を凍らせるだろう」という、「廃人の詩」
 という詩に目をつけて、作品(「邪悪のジャック」=
 編集部注)にしてくれた岡田史子さんぱ、変わった人
 だなって思いました。僕はそのとき、こういうことに
 目をつけてくれる少女マンガの人がいるんだなってい
 う、ちょっと自尊心をくすぐられるような思いをしま
 した。

 おまえは詩を書いて、何を目ざしたかっていわれたら、
 文学を目ざしたんだっていえるんですよ。そういうこ
 とをよく見出してくれたなって。岡田史子という人の
 作品は、まっとうな文学だって思いました。少女マン
 ガ御三家の作品は、映像化しても同じだと思いますが
 当時の文学と比べてもいちばんの純文学だと、純文学
 に近いと思いますね。ぼくはテレビでみただけですが、
 『子連れ狼』なんかも純文学よりももっと意味深いと
 思いましたね。それから『ドラえもん』も、どこがい
 いかわからなかったんで、子どもにも間いたんだけど、
 日常の人間の振る舞いとかあり方が、じつにみごとに
 表現されているというんですね。


 鋼の錬金術師

さて、自分の好きなコミックはと問われれば、熱心な読者
ではないが、荒川弘の『鋼の錬金術師』を上げる。ジャン
ルはハイ・ファンタジー漫画という。これは面白い。

                      

 
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