好きなだけ できる喜び 素直には 浮かれておれぬ 蛇目草かな
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山頂からの府中(直江津)と日本海
昼前に、今日は上天気だから「春日山城を観に行っては
」と彼女が言うので、「これからでは夜中にしか帰られ
ない」と言うと、それでも行けという。なぜそんなに急
かすのか、その理由が分かったのが帰宅後。書斎の部屋
のカーペットを天気干し大掃除が出来たと感謝される。
「亭主元気で留守が良い」と。
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春日神社
とは言え、4時間以上かかるため途中で帰ろうかと挫け
そうになり、北陸自動車道の富山インターで下車し思案
六方。意を決して上越インターに向かう。途中、親不知
インター付近の天嶮断崖景色は見応えあり無理した甲斐
があったと思いつつ16ものトンネルをくぐり抜け目的
地に向かう。
親不知の天険断崖
有磯海サービスエリア
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極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし
四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒
上杉謙信
本丸跡
春日山城址へは午後4時ごろ到着。車を降り早速登城す
る。いきなり険しい山登りとなり途中息切れ。便利にな
ったのはいいが、準備不足ではいけないということと、
運動不足の2点を痛感する。思っていたほど再開発整備
はされておらず、鄙びた山城跡という印象。本丸跡から
の直江津(府中)、日本海方面の眺めは、一見すると佐
和山城址の彦根市と琵琶湖の眺望と似通っている。
毘沙門堂
別名を鉢ヶ峰城ともいう。「春日山」の名称は、奈良の
春日大社から分霊勧請(かんじょう)した春日神社に由
来するといわれ。春日神社の創建年代は、958年(天徳2
年)説、守護上杉氏の築城の際とする説、文明年間(14
69年~86年)という説などがありはっきりしないという。
上杉謙信像
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ところで、直江兼続の真骨頂は、ポスト関ヶ原。関ヶ原
の戦い後、兼続は上杉家の生き残りのために奔走し、結
果、上杉家は取り潰しを免れ、120万石+αから米沢
30万石に削封となる(尤も、越後支配下は39万石)。
家臣の知行(給料)は、それぞれ3分の1に減る。兼続
も6万石から1万石に禄を減らし、しかもそのうち半分
を自分の家臣達に分け与えたため、自身の取り分は5千
石だったという。兼続は自ら先頭に立って殖産興業策を
指揮する。
直江兼続
米沢を流れる松川(最上川)の治水事業を行って町の基
盤を整え、身分の低い士族にも開墾に当たらせ農地を拡
大したほか、青芋(あおそ)、紅花、漆、うこぎなどの
作物を奨励するなどして、米沢藩の基礎を築き、藩政を
安定に導く。この政策は、米沢藩9代藩主上杉鷹山の改
革の手本ともなり、現代まで兼続の功績が評価されてい
ると言われる。
白布温泉
また一方で、蔵書家でもあった兼続は、その書籍を用い
て学問所「禅林文庫」、のちの藩校興譲館を創設し、人
材育成にも力を注いだほか、白布高湯の地には、技術者
を招いて鉄砲製造工場を設け、家臣達に射撃訓練を奨励。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、上杉軍は鉄
砲隊を用いて奮戦し、めざましい活躍で家康をはじめと
する諸将から賞賛された。元和5年(1620)、兼続
は江戸の屋敷で死去し、米沢の徳昌寺に葬られる。享年
60。後に林泉寺に改葬され、墓は現在も奥方であった
お船の方の墓と並んで建っている。また、兼続所用とし
て有名な「愛」の前立の兜は、上杉神社稽照殿にて観る
ことができるという。
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短時間で春日山城址に登り下山し、午後8時過ぎに帰宅
できたが(途中、長浜付近で、車の火災事故を目撃-不
景気で車両整備不良?)、米沢の上杉神社には、山形大
学の有機EL研究会の開催時に訪れており、縁深いもの
も感じないわけもないが、機会があれば朝日軍道なども
訪れたいと思っている。
城戸淳二
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ハルシャギク(波斯菊、Coreopsis tinctoria)はキク科の一
年草。和名の由来となっている「ハルシャ(波斯)」は
ペルシャのことだが、原産は北アメリカ。明治の初期に
観賞用に導入された一年草。荒地・路傍に野生化してい
る。ロゼットで越冬し、高さ1m程度になる。全体無毛
で葉は対生し、葉は2回羽状複葉で細く、コスモスに似て
いる。花は6月に咲き、舌状花は先端側が黄色で基部が
紫紅褐色。開いたばかりの花は花弁が平開しているが、
次第に花弁が下に下がりってくる。花弁が下がった状態
の花は、まさに蛇の目傘である。別名、蛇目草。
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好きなことをさせてもらえることは幸福である。その機
会を精一杯堪能する知恵がなければ苦痛にも。今回のド
ライブで贅沢な悩みも噛みしめた。ペルシャの古名つけ
た「ハルシャギク」。花言葉は「上機嫌」。
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