秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

それぞれの歴史

2008-10-08 | 日々是好日
実家の土地に埋められた水路があったと、明治時代の地図には載っているらしい。
昭和初期にその土地を購入した頃、すでに成人だったもので今も生きている人はいない。

その水路分地代を払うかどうかで面倒なことになっているので、とりあえず印鑑証明がいると言われました。

そんなアホな、なんで今さら、というのが実感ですが、
最近の法律で決まったらしい。
くだらん法改正せんといて欲しかったよ。

それで先日の日曜に実家へ行ったついでに、
氏神様の菅生(すごう)神社が何百年かぶりに社殿を建て直したので見に行こうということになりました。

境内に入って真っ先に目に付いたのが最初の画像の石碑です。
「菅生の開帳に 平尾の山で ごまのぼたもち せんど食た」

なんとおおらかな歌なんでしょう。
作者不詳のようで、ネットで調べてみましたがわかりませんでした。

 

菅生神社の裏手東のほうに残った土塀です。
いかにも年代を経ています。

菅生神社は、文献の初出は759年
「河内国丹比郡 菅生神社」と記載され大社に列しているぐらい歴史のある神社です
1331年二度の兵火に遭って社殿等を焼失し記録がないため創立年代は不詳です。
鎭座地の移動は上古より一度もなかつたと推定できるそうです。

南海高野線・北野田駅から東へ車で5分ほど行ったところにあります。

仁徳天皇が難波京からこの地に丹北大道を造営せられ、飛鳥時代には、難波宮と飛鳥京を結ぶ日本最古の宮道「飛鳥道」に北端を接します。

大和朝廷の時代から、和泉(堺)と大和を結ぶ交通の要衝でした。

古代のこの地は池沼が多い湿地帯で、一面に菅(すげ)が生い茂っていたため菅生の地名が生まれたようです。

河内国には天児屋根命を祖とする中臣氏が多数居住していて、
その一族が菅生の地に本拠を構えてから菅生氏と名乗り、豪族としてこの地を支配。
天平18年、菅生朝臣の姓を賜わり検非使遺や神琴師になって朝廷に重用されました。

その菅生朝臣が、祖神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を氏神として祀ったのが菅生神社の創始です。

ところが源平合戦の時、菅生朝臣一族は平家方に加勢したため敗北しこの地を追われ、四国や中国地方の山奥に逃避して落農となった。

室町時代には残存の一族によって神社の復興に努め、
その頃天満天神の祭祀が全国的な風潮となったのに乗じ、菅原道真を主祭神とする神社に変貌。

江戸時代には「菅生天満宮」と呼ばれるようになり、天神の方が主祭神とされるようになったと書かれていました。

子供の頃、氏神様とは思っていても、天満宮とは認識していなかった。

 

境内には、稻荷社・少名日子名神社・八幡大神社・大歳神社・嚴島神社・余部神社があります。
そのうちの余部神社は、もっと身近な氏神様です。

そこの由緒をみて驚きました。
それから毎晩ずっと調べてました。
やっとわかったこと、すっきりしたこと、また今度書きます。