画像は京都太秦の広隆寺にある国宝・弥勒菩薩。
帰化人・秦(はた)氏の氏寺です。
中学3年のとき、同じクラスに秦君という男子がいました。
頭脳明晰で天王寺高校に進学したと記憶していますが、
同窓会で再会したことはないし、
他の友人に聞いてもそんな子いてたかなといいます。
あまり話した記憶はないけれど、顔がありありと浮かぶのです。
この弥勒菩薩に少し似ていたような気がしないでもない。
秦(はた)という名前が珍しく帰化人の子孫だと思い込んでた。
でも卒業アルバム見ても見当らないのは、卒業前に転校した?
ほんとに存在していたんだろうか・・・
秦氏は弓月君を始祖をとする氏族集団で、日本渡来公式記録No.1
応神記283年弓月君が連れてきた18,760人、と記されているそうだ。
中央アジアの「弓月」は現在のカザフスタンあたり。
早くからここはキリスト教国であったのでした。
秦の始皇帝(BC259-BC210年)にはじまる万里の長城、
中国の皇帝たちは周囲の民族を征服し、労役に駆り出したが難民も多く出ました。
弓月の人々も万里の長城の苦役に絶えられず、東へ東へと逃げ、朝鮮そして日本に。
3世紀の三国史・魏志東夷伝には、弓月の王は馬に乗り高い文化をもつ人々と記載されているらしい。
背が高く衣服を清潔にし特別な言語や風習をもっていたようだ。
私の記憶の中の秦君はそれほど大柄ではなかったけれど、清潔感はあったし何よりも聡明な静さがあった。
5世紀までの日本は人口200万人位だったようで、
紀元前から紀元後にかけて2万人を超える渡来人の技術・文化の影響力は、驚くほどのものがあったに違いない。
秦氏は宇佐八幡、八幡信仰、そして仏教導入との関わりが指摘されています。
聖徳太子の時代に生きた秦河勝は、秦氏伝承の中心的・始祖的人物で、
603年(推古11)に聖徳太子が仏像を得て、それを秦河勝が奉斉ることを引き受け、その仏像奉斉のためにつくられたのが後の広隆寺です。
日本中に今、「お水取り」「大文字焼き」など仏教と思われる行事の多くは、景教を土台としたものというサイトを見つけました。
詳しくは →
こちらで
エルサレムはヘブル語で「平安の都」という意味だそうだ。
祇園祭、毎年7/17の山鉾巡行は、
ノアの箱舟がアララト山に漂着した日(ユダヤ暦の第7/17)。
イスラエルには琵琶湖と大きさも形もよく似たガリラヤ湖があり、
これは古代には「キレネテ湖」と言われていたが、
キレネテとは琵琶という意味ですって。
高校時代に、仁徳天皇陵をあけないのは、エロイムエッサイムが見つかったらやばいからと聞きましたが、
あながち嘘八百ではないのかもしれない。