よく見かける二月堂を右下から見上げた写真。
同じアングルから撮影しました。
修二会の準備真っ只中で、舞台下の斜面に、
杉がすっくと姿よく立ち、その横に小さな祠に気づきました。
ちょっと挨拶していきなさいよ、と呼び止められたような気がした。
作業されてる方にお参りしていいかお尋ねして
鳥居前に立ってみると、左横に説明板がありました。
興成神社(こうじょうじんじゃ)
「修二会行法を守護する三社(興成・飯道・遠敷)のひとつで、
遠敷明神が若狭より送水された折、黒白二羽の鵜が岩盤を打ち破って飛び出て、
その後から甘泉湧出したのが若狭井(わかさい)で、鵜を祭ったのがこの興成神社である。
平安時代には、「能く不死薬を取りて人に与え食せしめ、長生の齢を保たしむ」という誓願を持つ菩薩として信仰されていた。
平安期には既に現在地に鎮座していたと想像される。
八大菩薩として現存しているのは当社だけである。」
なんかいわくありげな名前の付いた神社だと思え
帰ってから調べてみると
2010年3月3日 奈良新聞には
二月堂の周辺には三つの鎮守が祭られている。
本行が始まった1日と満行の15日未明、練行衆はこれらの社(やしろ)を巡拝する。
「惣神所(そうのじんじょ)」と呼ばれ、行の起結を報告。神仏習合の姿を今に伝える。
1日午後5時ごろ、二月堂から現れた練行衆の表情は固く引き結ばれていた。
小雨のため食堂(じきどう)脇から二月堂下の興成(こうじょう)社を参拝、行中の加護を祈った。
このあと、飯道(いいみち)、遠敷(おにゅう)の2社にも参拝した。
身をかがめて一心に祈る姿に緊張感が漂い、参拝者も息を詰めて見守った。
引き続き、惣神所で検索すると
ブログ「奈良大和路~悠~遊~」ですごい写真見せてもらえました。
無断で拝借してきましたので、気持ちばかり小さいサイズでご紹介。
(クリックで拡大します)
興成神社のご祭神は、豊玉媛命、山幸彦の后です。
修二会では、経を唱える十一面悔過の他に、神名帳(じんみょうちょう)と過去帳の奉読があります。
神名帳には日本全国60余州に鎮坐する490ケ所の明神と14000余ケ所の神々の名が書かれてあります。
それを読み上げて修二会に参詣せよと神々を勧請されます。
神名帳には興成大菩薩と記され、コージョーダイボサと読まれます。
巻頭部分の興文・興成・興松・興明・興児・興叙・興進・興高の
「興」のつく八社は八大菩薩と呼ばれましたが、現在はこの興成だけが残っているのですね。
甘泉湧出した若狭井は、
大きな杉の木は、良弁杉と呼ばれ、伝承が残っています。
「奈良時代の東大寺の高僧・良弁僧正は、二歳の時に鷲に攫われ春日神社前の杉の木に置かれていたのを助けられ義淵僧正に育てられた。その杉を良弁杉と呼ぶようになった」
この伝説を下敷きにした歌舞伎「良弁杉由来」→こちらでどうぞ
歌舞伎では、近江の国の志賀の里の領主は菅原道真の家臣で、その子供が良弁という設定です。
しかし、東大寺創建は8世紀半ば、道真は9世紀後半の人で時代があいません。
さらに良弁僧正は実は若狭の国小浜の秦氏の出身で、秦常満という長者の子供です。
神童の呼び声が高かったため、神宮寺の開祖である和赤麿が大和へ連れて行き、
当時第一の名僧であった法相宗の義淵僧正(?-728)に預け弟子にしてもらっったそうです。
それで若狭からお水送りするということに繋がっていきます。
そして、あと二つの鎮守社、訪れた時は全く知らなかったけれど、
二月堂右側の階段を上がったところの、
飯道神社(いいみちいんじゃ)は撮影してありました。
けったいな名前の神社だと思ってシャッター押したのだった。
鎮座地 奈良県奈良市雑司町
(東大寺境内東大寺二月堂の南東に鎮座)
ご祭神 軻具突智神(かぐつちのかみ)
埴山媛命(はにやまひめのみこと)
稚皇産霊神 (わくむすびのかみ)
神名帳の二段目に記され、イイミチノダイメョウジンと読まれます。
修二会を創始した実忠和尚の勧請と伝わる。
甲賀郡信楽町の飯道山に同名の神社があり、信楽は聖武天皇が遷都し大仏造立を発願した場所でもあります。
何らかの繋がりがあるのでしょう。
最後の一社が、遠敷神社ですが、これは全く気づかず画像ありません。
裏参道から二月堂について、左側の屋根つきの階段をのぼると
上がった所に手水舎がありました。
さらにその上に鎮座されてるようです。
遠敷神社(おにゅうじんじゃ)
ご祭神 彦火火出見命…山幸彦
神名帳に小入大明神(オニウノと読む)とあり有名な説話が残ります。
若狭の国の遠敷明神が漁に出ていて二月堂に遅参、
詫びのしるしに若狭の水を献上する事になり二月堂下の大岩の前で一心不乱に祈られた。
岩がパックリと割れて、割れ目から白と黒の二羽の鵜が飛び立ち、甘泉がこんこんと沸き出した。
その水が湧き出た場所が二月堂下の若狭井と言われ、現在そこに閼伽井が掘られています。
同じアングルから撮影しました。
修二会の準備真っ只中で、舞台下の斜面に、
杉がすっくと姿よく立ち、その横に小さな祠に気づきました。
ちょっと挨拶していきなさいよ、と呼び止められたような気がした。
作業されてる方にお参りしていいかお尋ねして
鳥居前に立ってみると、左横に説明板がありました。
興成神社(こうじょうじんじゃ)
「修二会行法を守護する三社(興成・飯道・遠敷)のひとつで、
遠敷明神が若狭より送水された折、黒白二羽の鵜が岩盤を打ち破って飛び出て、
その後から甘泉湧出したのが若狭井(わかさい)で、鵜を祭ったのがこの興成神社である。
平安時代には、「能く不死薬を取りて人に与え食せしめ、長生の齢を保たしむ」という誓願を持つ菩薩として信仰されていた。
平安期には既に現在地に鎮座していたと想像される。
八大菩薩として現存しているのは当社だけである。」
なんかいわくありげな名前の付いた神社だと思え
帰ってから調べてみると
2010年3月3日 奈良新聞には
二月堂の周辺には三つの鎮守が祭られている。
本行が始まった1日と満行の15日未明、練行衆はこれらの社(やしろ)を巡拝する。
「惣神所(そうのじんじょ)」と呼ばれ、行の起結を報告。神仏習合の姿を今に伝える。
1日午後5時ごろ、二月堂から現れた練行衆の表情は固く引き結ばれていた。
小雨のため食堂(じきどう)脇から二月堂下の興成(こうじょう)社を参拝、行中の加護を祈った。
このあと、飯道(いいみち)、遠敷(おにゅう)の2社にも参拝した。
身をかがめて一心に祈る姿に緊張感が漂い、参拝者も息を詰めて見守った。
引き続き、惣神所で検索すると
ブログ「奈良大和路~悠~遊~」ですごい写真見せてもらえました。
無断で拝借してきましたので、気持ちばかり小さいサイズでご紹介。
(クリックで拡大します)
興成神社のご祭神は、豊玉媛命、山幸彦の后です。
修二会では、経を唱える十一面悔過の他に、神名帳(じんみょうちょう)と過去帳の奉読があります。
神名帳には日本全国60余州に鎮坐する490ケ所の明神と14000余ケ所の神々の名が書かれてあります。
それを読み上げて修二会に参詣せよと神々を勧請されます。
神名帳には興成大菩薩と記され、コージョーダイボサと読まれます。
巻頭部分の興文・興成・興松・興明・興児・興叙・興進・興高の
「興」のつく八社は八大菩薩と呼ばれましたが、現在はこの興成だけが残っているのですね。
甘泉湧出した若狭井は、
大きな杉の木は、良弁杉と呼ばれ、伝承が残っています。
「奈良時代の東大寺の高僧・良弁僧正は、二歳の時に鷲に攫われ春日神社前の杉の木に置かれていたのを助けられ義淵僧正に育てられた。その杉を良弁杉と呼ぶようになった」
この伝説を下敷きにした歌舞伎「良弁杉由来」→こちらでどうぞ
歌舞伎では、近江の国の志賀の里の領主は菅原道真の家臣で、その子供が良弁という設定です。
しかし、東大寺創建は8世紀半ば、道真は9世紀後半の人で時代があいません。
さらに良弁僧正は実は若狭の国小浜の秦氏の出身で、秦常満という長者の子供です。
神童の呼び声が高かったため、神宮寺の開祖である和赤麿が大和へ連れて行き、
当時第一の名僧であった法相宗の義淵僧正(?-728)に預け弟子にしてもらっったそうです。
それで若狭からお水送りするということに繋がっていきます。
そして、あと二つの鎮守社、訪れた時は全く知らなかったけれど、
二月堂右側の階段を上がったところの、
飯道神社(いいみちいんじゃ)は撮影してありました。
けったいな名前の神社だと思ってシャッター押したのだった。
鎮座地 奈良県奈良市雑司町
(東大寺境内東大寺二月堂の南東に鎮座)
ご祭神 軻具突智神(かぐつちのかみ)
埴山媛命(はにやまひめのみこと)
稚皇産霊神 (わくむすびのかみ)
神名帳の二段目に記され、イイミチノダイメョウジンと読まれます。
修二会を創始した実忠和尚の勧請と伝わる。
甲賀郡信楽町の飯道山に同名の神社があり、信楽は聖武天皇が遷都し大仏造立を発願した場所でもあります。
何らかの繋がりがあるのでしょう。
最後の一社が、遠敷神社ですが、これは全く気づかず画像ありません。
裏参道から二月堂について、左側の屋根つきの階段をのぼると
上がった所に手水舎がありました。
さらにその上に鎮座されてるようです。
遠敷神社(おにゅうじんじゃ)
ご祭神 彦火火出見命…山幸彦
神名帳に小入大明神(オニウノと読む)とあり有名な説話が残ります。
若狭の国の遠敷明神が漁に出ていて二月堂に遅参、
詫びのしるしに若狭の水を献上する事になり二月堂下の大岩の前で一心不乱に祈られた。
岩がパックリと割れて、割れ目から白と黒の二羽の鵜が飛び立ち、甘泉がこんこんと沸き出した。
その水が湧き出た場所が二月堂下の若狭井と言われ、現在そこに閼伽井が掘られています。
私の住んでいるところは雑司が谷です。
以前は雑司谷町と言っていました。
二月堂はお水取りで有名ですネ。
東大寺に行っても、駆け足で見るため、祠も気がつかず、通り過ぎました。
3回行きましたが、ゆっくり回りたいと思いました。
雑司(造司)
古代、官営寺院の造営や修理の為に臨時に置いた官庁。
奈良時代の造東大寺司は八省に準ずる機構であった。
平安時代以降は東大寺、興福寺の造寺司のみとなつた。
ということは東京の雑司が谷もそうした方々の住まわれていた地域ということでしょうか。
今回もわずかな時間でしたので駆け足で、見落としたところいっぱいあることにあとで気づきました。
予習の段階ではなかなか目にとまらないもんですわ。
江戸城管理下の地域だったそうです。
雑司が谷から神田川に向かう場所は「お鷹狩り」で将軍が来たり、鬼子母神への参拝もあったようです。
歴史と文化の町がキャッチの町です。
手塚治虫や松本清張が住んでいた時期がありました。
国木田独歩の武蔵野にも「武蔵野はまず雑司谷から起こって…」と記述があります。
「雑司が谷 由来」で検索したら、鬼子母神のサイトがヒットしました。
鬼子母神(きしもじん)のご尊像は室町時代の永禄4年(西暦1561年)1月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、…以下略
「若狭守」家臣の山村某が掘り出した母神像だって。
久美浜の母子像まで思い出してしまいました。
古い時代に母子像を祀る風習が各地にあったのですね。
八百比丘尼も空印寺で入定してるし、
奥州十三湊日ノ本大将軍(安東氏=安倍氏=安倍晋)は羽賀寺の記録だし、
何気ないふりしてスゴいんですよねオバマ市。
かつてはそれだけ重要な港だったんでしょうね。
飯道神社なんてあったんですね。
こないだ古墳時代の火砕流武人骨と乳児骨が見つかった榛名山の榛名山神社とおなじカグツチとハニヤスメ。この火と土から生まれた子が再生神ワクムスビですよね。
東日本大震災の震源同緯度の竹駒神社の祭神ですから、こちらのブログネタですみませんが、ほんっとつながってるんですねぇ。
>すごい写真
たしかに。
ひぇ~って、思わず笑ってしまいました。
いわくありげな映画のワンシーンみたい。
これからは男神の出番。
と、今回のブログにも書きました。
その火のミソギのとっても大事な神が彦火火出見尊です。
呼んだのは豊玉姫でしょうけど、ほんとにスゴい旅なんですってば。うまく説明できなくてもどかしいですけど。
>岩がパックリ→白と黒の鵜
手始めに、2月25日の日光震度5強の震源が黒岩山でした。
いや、こじつけじゃなくて(笑)。
現在は舞鶴から敦賀への道があと少しで全通しますが、舞鶴道ができるまで小浜へ行くのは難儀でした。
そのもっと昔、船と徒歩で移動した時代は琵琶湖の高島あたりからすぐだったのでしょうね。
鯖街道を観光バスで走ったことあります。
敦賀も琵琶湖北の余呉湖から近くて古代はもう少し川等水路が利用しやすくなってたかも。
古代史に、小浜や敦賀が登場する理由が納得できます。
今年正月あけてから若狭一の宮といい、こちら東大寺の鎮護神社といい豊玉姫がお呼びになられてますね。
しかし彦火火出見尊は、遠敷神社を全く見逃したようにおよびじゃあないようで…。
飯道神社は竹駒神社の祭神と同じだったのですか。
以前、小野篁つながりで名前知ってました。
いやさかさんのブログで熱田神宮の一之御前神社について話題になってましたね。
今年守口市の神社全部の奉賛会がバス何台も連ねて催行する初詣は熱田神宮でした。
今年、祭祀1900年だそうで企画されたのでしょう。
日にちがバッティングして参加しませんでしたが、ネット検索で以下ブログ見てへぇ~と思ってました。
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_177.html
籠の中の鳥はいついつ出やる、夜明けの晩に鶴と亀が統べった後ろの正面だあれ?
私の中の若宮さんが出てくるといいなあと思います。日光の裏でイワサクネサクさんを追っかけたりしてましたけど磐からもイメージいいですね。水神さんでしょうし、木とも縁があるはず。
女神も関わるのであればいい感じです。
それぞれのベースにより違いに危機感持つ事もあるんでしょうけどありのままでそのお役目がある人しか辿りつけないのが地位と名誉。妥当になっていくと現世にもいい効果ありそうですね。
大きな杉の方が言葉でなく行動で息子に教えていた精神性を現世で見せつけて、現在生きている方に影響を与えそして今後は裏で人間の美しい生き様を応援してくれると2匹の鵜も安心でしょう。
鶴と亀も文句言わず、アシストしてくるといいですね。いっぱい先にご褒美貰ってるんですから。
2745
うららさまの貢献あるでしょうね、念仏が全てですね。色々勉強になります。
孫悟空って磐からうまれたんでしたっけ?手力男が割ったんかな?桃の節句もまもなくですね。
女の祭りみたいですけどどうも昔から男の祭りのイメージです。5月が女の祭りで。そう思う方いないかな?2743
拙ブログでは五色塚古墳の記事のコメント欄等。
ゆづるは神社は2つあって、それぞれのシンボルは、
神戸の弓弦羽神社は黒い八咫烏、淡路島の諭鶴羽神社は白い鶴。
ここでも白黒の鳥が出てきます。
二月堂では白黒の鵜、なんか示唆してるのでしょうか。
鶴とこうのとりはよく勘違い混同されてますが、花札や日本画の「松に鶴」は間違い、鶴は一本足で田んぼに立てても木の枝に止まれる足の構造になってない。
伊雑宮の所でも書きましたが、白鳥はまさに白い鳥で、それは鶴かコウノトリか、ハクチョウか認識区別してなかったかもしれませんね。
物言わずの皇子のために白鳥を追いかけたエピソードとかも不思議ですね。
で自分のコメントに鵜鷺って書いてあったんであれ〜?と。この夏鷺に翻弄されていたんですけど、色は白。で鵜は男っぽいし黒だし。
杉に合うなら蛇っぽい気もするし。豊玉さんとホオデミさんで埴安さん。なんか揃ってますね。
階段の下の毘沙門さんに子供の指摘で意識したんですけど、それも今の中心人物なんですよ。八幡目的で行って毘沙門さんに先に会ったんですよね。
良弁さんあたりの方はどうもこっち関東の方も知っているのかな?若狭と関東を繋ぐのはやっぱり越ですかね。お水取りの松明はどこだったかな?気になってきましたよ。
行基さんが関東とどう繋がるか、というご質問も、つい最近どこかであったような、それが見つからないのでココで。
自分で実地検証したわけでもないので新たに記事とするまでにいかず、でもどこかに記録残しておきたいので。
行基さんでも良弁さんでもなく、役行者さん絡みですけど。
坂東平氏の氏神である一言主神社の神紋は、九曜星だそうです。
奈良は葛城の一言主っさんは半菊に
一の字なのに、なぜか。
平家は妙見信仰に熱心で、平将門もさかんに妙見神社を建立した。
相馬の相馬家も、千葉の千葉氏も、九曜星を家紋としている。
利根川だけでなく、伊豆や秩父、前橋など関東一円を開拓したのは平家とその郎党だった。
平家が役行者の一族である賀茂氏を関東に連れてきた。
関東周辺各地に役行者伝説が残っているのは、伊豆に流された役行者に由来する。
役行者は、もともと賀茂氏の出で葛城の一言主に仕える宮司の一族だった。
鹿島市と取手市には加茂神社が残っているのは、利根川の流域の開拓で、賀茂氏が陰陽道系の天文観測術を持って来たから。