奈良の東大寺、春の訪れの伝統行事「お水取り」
まだ行ったことないので画像もらってきました。
聖なる炎の祭は一度は見てみたいし、あの火の粉で煩悩を祓ってもらいたいとも思っています。
中国のお寺であまり見られない「火祭り」が、日本の寺院では珍しくありません。
これって、もともとの仏教行事ではなくて、ゾロアスター教の影響を色濃く伝えたものだと言われています。
イラン中部のヤズドにあるゾロアスター教の寺院では、彼らが神聖視する炎が燃え続けていて、その火はゾロアスター教の草創期である紀元前1200年以来絶えたことのない炎と言われているそうです。
現在なおイランでは、春になると各家庭で炎を飛び越え一年の穢れを落とす行事を続けているとか。
松本清張は朝日新聞に連載した「火の路」という作品で、ゾロアスター教がシルクロードを通って飛鳥・奈良まで伝わったという話を書きました。
東大寺二月堂のお水取りの行事や火祭りも、ゾロアスター教が日本に渡来した証拠だと。
今では東大寺自身が、修二会におけるゾロアスター教の影響を認めているという。
京都・大文字五山送り火の「大文字火」
お盆8/16「大」の字などをかたどって送り火をたく大文字焼きは、空海が景教(キリスト教・ネストリュウス派)から取り入れて始められたそうです。
お盆の迎え火・送り火も仏教にはない行事で、中国でゾグド人や景教徒の影響を受けて始まり、空海が日本に持ち帰って広めたといわれています。
空海が遣唐使で渡った中国、当時の唐王朝はトルコ系鮮卑族といわれています。
当時の都・長安は異民族が集まった国際都市だったのです。
高校の世界史の時間にそう聞いたときへぇ~と驚いた。
けれどもお盆行事などが景教からきているとはつい最近まで知らなかった。
日本に初めて仏教の授戒の法を伝えた鑑真(688-763)とともに来日した安如宝は、鑑真の死後、唐招提寺金堂建立に中心的な役割を果たしたとされています。
如宝のルーツはソグド系です。
中国では胡人は出身地の地名に応じて漢字の姓を名乗ったとされ、安=ブハラ、康=サマルカンド、石=タシケント、史=キッシュ
すると安如宝はブハラ出身となりますね。
中国では、845年大規模な宗教弾圧が起こりました。
唐の皇帝・武宗は、仏教界の横暴と堕落を見て、
「これては宗教が国を食い潰してしまう」といい、国内の全ての宗教を弾圧しました。
この時景教も巻き添えを受けて弾圧され、中国から沢山の景教徒たちが日本に亡命してきたようです。
現代人の想像をこえる文化・物・人の往来が頻繁だったのですね。
ダルビッシュ有選手のような男前がいっぱいいたんだぁ。
まだ行ったことないので画像もらってきました。
聖なる炎の祭は一度は見てみたいし、あの火の粉で煩悩を祓ってもらいたいとも思っています。
中国のお寺であまり見られない「火祭り」が、日本の寺院では珍しくありません。
これって、もともとの仏教行事ではなくて、ゾロアスター教の影響を色濃く伝えたものだと言われています。
イラン中部のヤズドにあるゾロアスター教の寺院では、彼らが神聖視する炎が燃え続けていて、その火はゾロアスター教の草創期である紀元前1200年以来絶えたことのない炎と言われているそうです。
現在なおイランでは、春になると各家庭で炎を飛び越え一年の穢れを落とす行事を続けているとか。
松本清張は朝日新聞に連載した「火の路」という作品で、ゾロアスター教がシルクロードを通って飛鳥・奈良まで伝わったという話を書きました。
東大寺二月堂のお水取りの行事や火祭りも、ゾロアスター教が日本に渡来した証拠だと。
今では東大寺自身が、修二会におけるゾロアスター教の影響を認めているという。
京都・大文字五山送り火の「大文字火」
お盆8/16「大」の字などをかたどって送り火をたく大文字焼きは、空海が景教(キリスト教・ネストリュウス派)から取り入れて始められたそうです。
お盆の迎え火・送り火も仏教にはない行事で、中国でゾグド人や景教徒の影響を受けて始まり、空海が日本に持ち帰って広めたといわれています。
空海が遣唐使で渡った中国、当時の唐王朝はトルコ系鮮卑族といわれています。
当時の都・長安は異民族が集まった国際都市だったのです。
高校の世界史の時間にそう聞いたときへぇ~と驚いた。
けれどもお盆行事などが景教からきているとはつい最近まで知らなかった。
日本に初めて仏教の授戒の法を伝えた鑑真(688-763)とともに来日した安如宝は、鑑真の死後、唐招提寺金堂建立に中心的な役割を果たしたとされています。
如宝のルーツはソグド系です。
中国では胡人は出身地の地名に応じて漢字の姓を名乗ったとされ、安=ブハラ、康=サマルカンド、石=タシケント、史=キッシュ
すると安如宝はブハラ出身となりますね。
中国では、845年大規模な宗教弾圧が起こりました。
唐の皇帝・武宗は、仏教界の横暴と堕落を見て、
「これては宗教が国を食い潰してしまう」といい、国内の全ての宗教を弾圧しました。
この時景教も巻き添えを受けて弾圧され、中国から沢山の景教徒たちが日本に亡命してきたようです。
現代人の想像をこえる文化・物・人の往来が頻繁だったのですね。
ダルビッシュ有選手のような男前がいっぱいいたんだぁ。
船で来たのが
すごいですね
伝える人も
意気込みが違いますよ
「法事のためなり、何ぞ身命を惜しまん」と国禁を犯しての渡日だったそうです。
日本で阿修羅像が造られるまでに、さまざまな変遷があったのでしょうね。
今回の記事を書くときに「イラン 炎」で検索してたらアーシュラーというシーア派最大の宗教儀式「アーシュラー」がでました。
まさに言葉がそのまま、「アーシュラー」は「阿修羅」
イランはイスラムのシーア派、しかしもとはゾロアスター教の国だからその影響も大きく残しているのでしょうか。
古代イランの神アフラ→ゾロアスター教の光の神アフラ・マズダー→「アーシュラー」追悼儀式へと、どう伝わり変化したのか追跡しなかったので触れませんでした。
中国の景教弾圧のことも、大勢の信者達が日本に逃げてきたことも知りませんでした。遣唐使船が嵐でよく難破して、鑑真が苦労したのも映画「天平の甍」で見たので、そんなに日中間の往来があったとは思っていませんでした。
五山の送り火も景教から来たのですか。毎年亡くなった身内や友人を、送り火を見て、あの夜へ帰るのを見送る気持になっているのですが。
阿修羅像、初めて見たとき、凄く心惹かれたのを覚えています。
その時に検索で発見して大変興味を持ちました。
現地では、ほとんどがイスラム建築でそうした痕跡は残ってなかったですけどね。
クシャン三尊像について書きましたが、いろんな文化が融合することで新しい局面を開く、これってまたある意味ご縁ですよね。
日本仏教がシルクロードの端で、独自の仏教となったこと、これはこれですばらしいものだと思います。
ただその由来なり、意味を知っておくのも大事かなと思い記事にしました。
火祭りは中国ではあまり見られないのですか?
参考になりました。
奈良の大安寺には、中国から来た僧(中国人僧・印アド人僧ボダイセンナなどがいたのも最近知りました。
奈良時代って不思議な時代ですね。
そして何度かイランへ足を運ばれたそうですよ。
斉明天皇をウキペディアでみたら
657年7月3日 - 覩貨邏国(とからのくに)の男2人・女4人が筑紫に漂着したので召す。
7月15日 - 須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行なった。暮に覩貨邏人を饗応する
659年3月10日 - 吐火羅人が妻の舎衛婦人と共に来る。
この吐火羅トカラを検索してると面白かったです。
気を悪くなさらないで聞いてクダサイネ。
「今では東大寺自身が、修二会におけるゾロアスター教の影響を認めているという。」
これは何らかの根拠があるの話でしょうか?
何時そのように東大寺が認めたのですか?
「中国では胡人は出身地の地名に応じて漢字の姓を名乗ったとされ、安=ブハラ、康=サマルカンド、石=タシケント、史=キッシュ」
これはどんな書物に書いてあることなのでしょうか?ネットでもいいのです出典を記していただければ、信頼性が増すと思うのでスが~。
それで「安=ブハラ、康=サマルカンド、石=タシケント、史=キッシュ」で検索したらいっぱい出てきてまた読みふけってしまいました。
例えば
ソグド人のコイン
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/E017.htm
ソグド人は、中国にも集団で村を作って住み、出身地ごとに異なった姓を名乗っていました。
石(タシュケント)、安(ブハラ)、何(クシャーニヤ)、曹(カブーダン)、康(サマルカンド)、米(マーイムルグ)、史(キッシュ)など
漢代の漢字使用における「白」
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/27522964.html
人口の多い民族国家の中で生きる知恵として、ゾクド人などは同じオアシス都市出身者同志
異境の町で出会ったらすぐ判るように都市の頭文字を名前に付けて分る様にした。
安:ブハラ 何:クシャーニア 康:サマルカンド 石:タシケント 曹:カブーダン 米:マーイムルグ 史:キッシュ 羅:不明
こうした方法で都市名ではないが、中国人はインド系は「白」を付けて区別し、詩人白楽天はインド系中国人である
西日本新聞
交流の道 中国・美の十字路展 ソグドと奈良 鑑真と来日した少年
http://www.nishinippon.co.jp/news/museum/special/060208.html
ゾロアスターと東大寺のことも1箇所ではなく何箇所かで確認できたので記事にしたと思います。
特にあるキリスト教会の牧師さんのサイトで、聖武天皇のことや悲田院のことなども含めて詳しく書かれていたような記憶があります。
サイト見つけたらまたお知らせします。