秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

伊那谷の高遠城址

2023-05-08 | 旅・関東&中部&北陸地方
立山黒部アルペンルートを通り抜けたのは4月17日。
あっという間に3週間過ぎて。
16日に旅立って初日どこ行ったか、そのうち書こうかな程度でした。
ちょうど今『どうする家康』では、武田軍が攻めて来る三方原の戦いシーン。

高遠の小彼岸桜は終わってたけど、高遠城址のこと記録しておきます。
まだ覚えてたし。


新大阪7:54のこだまで名古屋へ、中央線乗り換え中津川下車。
そこから満員の観光バスで昼食場へ。
高遠城址公園には13時半頃着きました。


大手門と伝わる遺構。
長年観たいと思ってた桜、今年は運悪く10日以上早かった。
ツアー申し込んだの1月中旬だったから。
桜祭りも終わってて入場料400円返金されました。






2人の写真を添乗員さんに写してもらいました。

この高遠で一番印象に残ったことに繋がります。



iPhone戻ったら、なぜか撮影がLiveモードになってる。

Live だと前後1.5秒の動画になります。
10枚ほどの連写になり好きな瞬間選べるけど、画像が微妙に動く。
普通撮影モードに戻したい。
添乗員さんに聞いても?。

検索した所、撮影画面の右上の二重丸のような印をタップすれば切り替わると知る。
iPhone受け渡しの際に無意識のうちに触れてたようです。
一生モンというほどの情報でもないけど、わかってよかったです。


そして3週間過ぎて、やっと高遠城の歴史に心が動いた。
武田信玄のあとを継いだ勝頼がこの城の城主だったと知る。

高遠城物語 によりますと、

高遠城の築城年代は不明だが、もともとは高遠氏が拠点にしていた城と考えられる。
戦国時代、武田信玄によって滅ぼされ、天文16年(1547年)に大改修が行われた。
以後、信玄の近親者ばかりが城主となっていることからも、
この城が南信濃支配の重要拠点とされていたことがうかがえる。

関ケ原の合戦の後、家康の指令により、
保科正光が高遠城に入ったのが元和3年(1617)年のこと。
正光の没後、跡を継いだのが二代将軍秀忠の子、保科正之。


三峰川と藤沢川の合流地点の河岸段丘上に建つ高遠城は、
「平山城(ひらやまじろ)」と呼ばれる形の城。
東側さえ防御すれば、それ以外からの攻撃は困難で天然の要塞。


へぇ〜そうだったんだ。

別名は兜山城ともいうらしい。
確かに桜が終わった後の城址を散策してると、心がさくらに奪われない。
地形を活かした、なかなかにいい城だったに違いない、
なんて思ってました(^^)

奈良の不退寺行った時、ここで暮らしたいと思ったように、
この城なら住んで良さそう、
でも敷地の手入れ大変やななんて思ったりも。
日本各地のお城見学して、そんな思いになったの初めてのことでした。











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