江戸時代後期の11代将軍家斉の時代、寛政8年(1796)に刊行された名所図会は、
当時人気の旅行用ガイドブックであったようです。
和泉名所図会は全四巻からなっています。
菅原神社は第1巻、堺天神社であらわされています。
第二次世界大戦終盤、堺の空襲でほとんど焼失しました。
わずかに焼け残ったのが、随身門と末社の金毘羅宮だけでした。
母が生まれ育った戎之町東4丁目は、堺北之庄なので氏神様は菅原神社。
なかでも戎の地名由来となる、えべっさんから書きます。
バッドタイミングでえべっさん寒波が襲来するらしい。
東大門から入ると、明日から始まるえべっさんの準備でいろいろ造作中でした。
イマイチよくわからない配置の境内でした。
どの鳥居がどのお社なのか…。
真っ先に、えべっさんにお参り行きました。
菅原神社でもらった由緒略記の、堺戎神社の部分が興味深かった。
戎島てどこ?から始まり、大和川の付け替えへと進みました。
ではその由緒をそのまま転記します。
「往古、今の戎島町付近は平砂の磯であった。
寛文4年(1664)8月8日突然島が湧き出した。
その時の刺史小野某氏が家々に命じて堤を築き一周の島としたと伝えらる。
その頃某氏この浦の海中に石の戎様が沈んで居られるという事を先祖より聞き
浦の人々を集めてさがした処、海中より石像を尋ねあてた。
其処へ幟をさし立て注連縄を引廻して帰った処、
夜中より大風波が起り海上が3日に亘り大荒れに荒れ穏やかになったのを待って、
百人余りの人々でこの石像を収め上げたが、御影石に青苔がつき、
貝がらがつきながらも生神と疑う程の尊く立派なものであったと伝えられる。
(寛文6年12月)石像の長さ3尺5寸、幅3尺、厚さ1尺7寸であった。
観月院頼弁法印が之をお祀りし、宮祠を造り人々は神酒を捧げて祭り祈った。
その頃からこの地は大いに賑いの町となってきたと云われる。
最初戎島の横向いに祀られていたが、延宝7年(1679)戎島内に遷座し、
又四方に池をめぐらしてあった亀宮の弁財天祠は明治元年神仏分離の際に廃された。
しかし明治40年12月26日戎之町西2丁字桐木町の村社事代主神と合祀し、
同41年12月8日に至り菅原神社の飛地境内末社となった。
その後昭和26年1月菅原神社境内の摂社として今日に至っている。」
一番最初に書いた、和泉名所図会によれば、
蛭子嶌(ゑびすしま)
大小路の西。当津に於て、諸國の運艦着岸の湊也。
此に、昼夜の賑、茶店、鮮食店、あるひは戯女の家多くありて、絃曲の音、酣歌の聲たへず。
中にも、織田居茶屋やといふあり。世に名高し。由致、詳ならず。
蛭子社(ゑびすのやしろ)
戎嶋にあり。寛文四年八月、波濤茫(びょうぼう)として、一ツの嶋成ル。
同十一月、霊亀出る。長四尺二寸、幅四尺。
同六年十二月、蛭児の石像を海中より得たり。
人、咸(みな)、奇也とす。
其時の刺史(しし)水野氏、家々に命じて堤を築し、石を畳て一周の嶋とし、高燈爐を揚げて旅舟夜泊の目瞪とす。
即、石像を安置して嶋の名とし、又、霊亀を祠て弁財天と崇め、此嶋の鎮守とす。
市蛭子(いちのゑびす)
蛭子町の石像の蛭子也。今、桐ノ木町にあり。
むかし、弘法大師此所を巡行し給ふ時、諸人に交易の市店をかざらせ、
稼穡を教て、後世繁昌のため、蛭子を石に鐫(ゑり)て市の守とし給ふ也。
又、大黒町といふあり。
これも、大師、大黒天を勧請し給ふ由縁なり。
由緒略記と和泉名所図会の刺史の名前違ってますね。
小野氏と水野氏、どちらが正しいのでしょう。
ちなみに刺史とは、
後漢末や三國志の時代の地方行政は郡県制と呼ばれます。
州、郡、県という行政単位が置かれ、
州の長官が刺史(牧)、郡の長官が太守、
県のうち大きな県の長官が令、小さな県の長官を長と言いました。
州刺史は兵権がなく郡や県を監督・指導する立場で、
それに兵権を持たせて権力を強化したものが州牧です。
当時人気の旅行用ガイドブックであったようです。
和泉名所図会は全四巻からなっています。
菅原神社は第1巻、堺天神社であらわされています。
第二次世界大戦終盤、堺の空襲でほとんど焼失しました。
わずかに焼け残ったのが、随身門と末社の金毘羅宮だけでした。
母が生まれ育った戎之町東4丁目は、堺北之庄なので氏神様は菅原神社。
なかでも戎の地名由来となる、えべっさんから書きます。
バッドタイミングでえべっさん寒波が襲来するらしい。
東大門から入ると、明日から始まるえべっさんの準備でいろいろ造作中でした。
イマイチよくわからない配置の境内でした。
どの鳥居がどのお社なのか…。
真っ先に、えべっさんにお参り行きました。
菅原神社でもらった由緒略記の、堺戎神社の部分が興味深かった。
戎島てどこ?から始まり、大和川の付け替えへと進みました。
ではその由緒をそのまま転記します。
「往古、今の戎島町付近は平砂の磯であった。
寛文4年(1664)8月8日突然島が湧き出した。
その時の刺史小野某氏が家々に命じて堤を築き一周の島としたと伝えらる。
その頃某氏この浦の海中に石の戎様が沈んで居られるという事を先祖より聞き
浦の人々を集めてさがした処、海中より石像を尋ねあてた。
其処へ幟をさし立て注連縄を引廻して帰った処、
夜中より大風波が起り海上が3日に亘り大荒れに荒れ穏やかになったのを待って、
百人余りの人々でこの石像を収め上げたが、御影石に青苔がつき、
貝がらがつきながらも生神と疑う程の尊く立派なものであったと伝えられる。
(寛文6年12月)石像の長さ3尺5寸、幅3尺、厚さ1尺7寸であった。
観月院頼弁法印が之をお祀りし、宮祠を造り人々は神酒を捧げて祭り祈った。
その頃からこの地は大いに賑いの町となってきたと云われる。
最初戎島の横向いに祀られていたが、延宝7年(1679)戎島内に遷座し、
又四方に池をめぐらしてあった亀宮の弁財天祠は明治元年神仏分離の際に廃された。
しかし明治40年12月26日戎之町西2丁字桐木町の村社事代主神と合祀し、
同41年12月8日に至り菅原神社の飛地境内末社となった。
その後昭和26年1月菅原神社境内の摂社として今日に至っている。」
一番最初に書いた、和泉名所図会によれば、
蛭子嶌(ゑびすしま)
大小路の西。当津に於て、諸國の運艦着岸の湊也。
此に、昼夜の賑、茶店、鮮食店、あるひは戯女の家多くありて、絃曲の音、酣歌の聲たへず。
中にも、織田居茶屋やといふあり。世に名高し。由致、詳ならず。
蛭子社(ゑびすのやしろ)
戎嶋にあり。寛文四年八月、波濤茫(びょうぼう)として、一ツの嶋成ル。
同十一月、霊亀出る。長四尺二寸、幅四尺。
同六年十二月、蛭児の石像を海中より得たり。
人、咸(みな)、奇也とす。
其時の刺史(しし)水野氏、家々に命じて堤を築し、石を畳て一周の嶋とし、高燈爐を揚げて旅舟夜泊の目瞪とす。
即、石像を安置して嶋の名とし、又、霊亀を祠て弁財天と崇め、此嶋の鎮守とす。
市蛭子(いちのゑびす)
蛭子町の石像の蛭子也。今、桐ノ木町にあり。
むかし、弘法大師此所を巡行し給ふ時、諸人に交易の市店をかざらせ、
稼穡を教て、後世繁昌のため、蛭子を石に鐫(ゑり)て市の守とし給ふ也。
又、大黒町といふあり。
これも、大師、大黒天を勧請し給ふ由縁なり。
由緒略記と和泉名所図会の刺史の名前違ってますね。
小野氏と水野氏、どちらが正しいのでしょう。
ちなみに刺史とは、
後漢末や三國志の時代の地方行政は郡県制と呼ばれます。
州、郡、県という行政単位が置かれ、
州の長官が刺史(牧)、郡の長官が太守、
県のうち大きな県の長官が令、小さな県の長官を長と言いました。
州刺史は兵権がなく郡や県を監督・指導する立場で、
それに兵権を持たせて権力を強化したものが州牧です。
えべっさんの日に堺戎に行ったのでリポートしました。
URL ご覧頂けると幸いです。こんなカンジでしたよ~♪
…で、たまたま宵戎の日に御所市の会議があり、恵比寿神社を通りかかったので、下の方にそのご由緒も載せてます。
ここは、ulalaさまが記事にされた「八重事代主」の鴨都波神社エリアの小さな神社です。ご神体は蛇穴村から移された恵比寿像とのこと。蛇穴とはサラキ、新来の意。古代、海外からやって来た人たちの村でしょうか。その人たちが祀っていたのが恵比寿像(エビス)なのですね。
事代主もエビスと言われます。古代大和がこのへんでも、渡来文化と重なりあうように思えました。(鴨族は深く調べなければならないのはもちろんなのですが…)
葛城歴史博物館の先生が、「堺は、金剛葛城の山を越えてやって来た人たちも多く住んでいるのですよ」ともおっしゃっていました。出雲へつながる道もそうだけれど、太平洋~堺~大和ルートは、住んでいると実感です。
堺は海に開けた街、堺戎は事代主を祭っています。海を越えてやってきた良いもの「エビス」。いやさかの木さまの「鯨(エビス)」から始まってulalaさまの今回のルーツ探索まで、自分の住む町を深く掘り下げることができて、嬉しいです。ありがとうございます。
ulalaさまが こんだけ調べてらっしゃるから、堺のえべっさんもほっとけませんって!商売繁盛まちがいなし♪
なんともオシャレな写真ですよね。
DIVAさんのアングルいつも素敵だなと思ってました。
この度の堺戎も面白い写真ですね。
クリックせずとももっと大きく使われるとインパクトありますのに。
蛇穴村、サラキって不思議な読み方だと思ってました。
櫛羅をクジラも変ですけどね。
新来の意味だったのですか。
旧事紀によれば
①建速素戔烏尊→②大国主命→③都美波八重事代主命→④天事代主籤入彦命→⑤奇日方天日方命
奇日方天日方命は丹波は石生にあるいそべ神社に祀られています。
事代主の子供で、妹は姫蹈鞴五十鈴姫命、神武天皇のお妃ですよね。
事代主が2代おられたのかも。
きっと伝承で伝わるものは全部嘘ではないのでしょう。
どこかの部分が抜け落ちたり、漢字が変わってしまったりして違ったものに?