大念仏寺で法要終えて、お食事はあのナニワイバラの和庵へ。
花梨の大きな黄色い実がどっさりたわわに実ってた。
下にもいっぱい落ちてた。
花梨って空海が遣唐使の帰りに持ち帰ったと聞いたような。
確認のため調べてました。
「満濃池関係資料集」によれば,空海が手植えしたカリンは,もともとインドのアンラ宮殿に繁茂していたものを唐に移植し,空海が帰朝のときに持ち帰って,京都神泉宛に植樹したものだったという。つまり,まんのう町に持参される前に京都に持ち込まれていたのである。
詳しくは→ こちら
そのサイトの違うページに面白いこと書いてました。
さらに,藤原定慧が唐からの帰国(678年)の際に持ち帰ったといわれる談山神社の「菴羅樹(安蘭樹)」が当初よりカリンであったとするならば,その渡来はさらに遡って飛鳥時代ということになるのだが・・・?
定恵いいですね。彼相当意味深い人ですよ。
飛鳥時代にどこに行ったか?この前妄想で思ったのが東北で出家した人がいたとかでえ〜、出家って政権争いからの脱出手段なのでそんな人いたらと考えたら定恵かな?と。技術と知識を持っていたバックがありそして出家までその当時凄いですよね。誰なのか?妄想ですけど。
お母様が蜂蜜や織物と縁があったらいいなあと。
梨にも鳥取ではまったし、どこかの神話の果物でも。カリンは大事そうですね。柑橘類として広げても面白いですね。3867
もう何年も前から気になり追っかけてる存在です。
このカリンでまたもやです。
定慧は11歳で遣唐使で唐に渡り、向こうで10年程暮らし、帰路百済によ
寄り1年程過ごしたと読んだ記憶あります。
もしカリンとかの樹木の実か種持ってて問題ない期間何かなと気になりました。
飛鳥時代に東北行ったのは聖徳太子のいとこの蜂子皇子ではないのですか?
そう聖徳太子の時代に近畿から脱出したのは蜂の子皇子、知り合いのいない所には行かないでしょうね。でその後定慧さんですが、彼は若くして出家しているというのはよっぽどそうしないといけない方だったのでしょう。で逃げたとも思えますね。
百済から戻るのもかなりいい感じです。というのも遣唐使の時代よりも先に随と縁があった地域がありそうでそこに定慧が行っていたならそこから唐がまもなく出来る前の中国に行っているはずでその関係者は朝鮮の方にも行ってるはずです。
卑弥呼の講演会だかでのうる覚えなのですけど、情勢をいち早く出向いていった方々がいて男女数人派遣したくらいでそのお返しが豪華すぎだとかそんな話してたんですけ知識がついていけずなので卑弥呼だったか後ほど資料探してみます。
もしかしたら日本から派遣された中にいたなら中国経由で百済から戻ってきたのかしら?
近江の桑実寺は、定慧が桑の実を持ち帰り養蚕を伝えたという桑峰薬師というところがあるようです。そうそう日本から派遣した少人数は相当評価が高い男女だったようなので織姫も一緒に動いているかもしれませんね。
私が最近教えて頂いたのは、東北から頭丸めて移動した方がいるという事。それが定慧だと妄想したのは私なので逆方向はびっくりしたんで気になっただけです。
蜂の子さんは、近畿から山形ですので逆方向ですね。
今日酉の市で羽のある馬二頭の絵を見てきました。定慧は白馬で蜂の子(羽黒)は黒馬?両方が地盤を変えた?それも白馬は中国朝鮮経由で。それぞれは、地盤変えても受け入れられる立場なり技術なり知識なりを幼少から持っていたでしょうね。
お母様が共通なら面白くなりますね。青の姫の子供が白馬で赤の姫の子供が黒馬なら青は出家する事で自由を得て、赤はとにかく消したいと思われる存在。両方とも存在価値を見出すと各地が繋がってくるようにも思います。若狭彦と蜂の子は移動の過程で名称が変わっていないのか?胞衣塚は黒と白(大と小)どっちと関わるのか?DNA鑑定出来たらいいのにと思います。本人たちも知らないけど知っている方はいるようで上手く利用されてるので気付いて欲しいとちょこっと思いますね。
双頭の鳥でしょうね。3716 9950