秋麗(あきうらら)

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地中海の女王☆カルタゴ

2010-02-17 | 旅・チュニジア
グッドタイミングなことに、産経新聞で「地中海のきらめく至宝」というタイトルで「古代カルタゴとローマ展」に関する記事が4回(2/9・11・12・15)連載されました。
さすが新聞社の文章はわかりやすいので、カルタゴの歴史をこの連載記事よりそのままいただいてくることにします。
以下「」で挟まれた文章は、すべて書き写したものであることをあらかじめお断りしておきます。

①ポエニ戦争(2/9)
「ピュルサの丘の遺跡はローマが支配したさい、カルタゴ時代の住居跡を埋め、上から巨大な建物を造った跡だった。
角柱に踏みつぶされたように見える家々が、カルタゴの悲運を物語る」

   
カルタゴ博物館の、どの地層からどんな埋蔵物が出てかを示す展示


古代カルタゴの街並み想像図


「カルタゴは前3世紀には地中海で最も繁盛した商業地だった。
港から神殿があった丘まではびっしり住宅が建ち、5,6階建てもあった。
町は碁盤の目に整備され、古代の地理学者は人口70万人に達したと、と書く」

「チュニジア随一のバルドー国立博物館には、1領の青銅の鎧が残る。
第2次ポエニ戦争(前218~201年)で、アルプス山脈を越えイタリア半島まで攻め込んだカルタゴの勇将ハンニバル。
その軍に関係があるとされ、まぎれもない同国の至宝だ(古代カルタゴとローマ展に出品)」

わざわざチュニジアまで行ったのに、それらは日本各地で巡回展示されてるなんて、運悪いね。
どおりでバルドー博物館は壁からはずされたモザイクもあり、この機会にとばかり補修中だった。





高度な航海術を駆使して繁栄したカルタゴは、イタリア統一をはたしたローマと
紀元前264年シチリア島の利権をめぐりポエニ戦争が始まります。
それから実に80年もの間、ローマとカルタゴは争い、最終的にローマはカルタゴを滅亡させました。
カルタゴの人々は殺されるか奴隷に落とされました。
火を放たれた街は17日間にわたって燃え続け、焼け跡には二度と再生することがないよう塩がまかれたともいわれています。


「住民が最後に逃げ込み、燃え落ちる町を見たとされるのがビュルサの丘だった」


②ケルクアン遺跡(2/11)
「フェニキア人は卓抜したモノづくりと航海技術で知られ、地中海の東から西方へ、そして大西洋へと国際交易網を築き、植民を進めた。
紀元前814年には、チュニジアの首都チュニス近くの海岸に、フェニキア本土から、王家のきょうだい間の相克を逃れてきた王女エリッサの一行が舟で到着する。
エリッサは先住民から土地を手に入れ住み着いた。
ここよりカルタゴが創建された、とされる」

王女エリッサは土地を分けてもらうに当たり、牛1頭分の皮だけの土地といわれたそうだ。
それでその皮を細く長いひも状にし、その紐で囲った土地をゲットするという機転を利かせた英知ある女王だったと伝えられています。


チュニジア入国時に書く用紙には、姓名の次に Meiden name 
何これ?でしょう、母親の旧姓を書くなんて初めてでした。
さすが女王建国の国だけのことあるわぁ。

「ガラスの起源はオリエントとされ、その技術を花開かせたのがフェニキア人、そしてカルタゴの職人たちだった。
ケルクアンにもガラス窯があり、カルタゴの工芸の厚みを物語る。
文化ではフェニキアだけでなく、ギリシャやエジプトの潮流も入り込んでいる」





「ケルクアン遺跡は1952年偶然発見された。
出土遺物から分かったのはここが職人の町だったこと。
陶器、ガラス、金銀細工のほか、盛んだったのが高級染物」

残念ながら、今回のツアーにケルクアンは含まれてなかったんです。