鹿児島県阿久根市で展開された「首長の暴走」についての報告とこの「暴走」をどう考えたらよいかについて書かれた本がこれである。
阿久根市なんて知らなかった(失礼)が、市長が「暴走」したことから阿久根市は「全国区」になった。しかしここで起きたことは決して阿久根市だけの問題ではなく、大阪などでも起きている「首長の暴走」について考える糸口が示されている。
阿久根市の事態については詳しくここに紹介する必要はないだろう。問題は、なぜこういう事態が生起したのか、それを現代日本社会の文脈から考えていくことが求められる。
平井氏が、この問題をどう考えているか紹介しておこう。
まず阿久根市長は、今はやりの「劇場型政治」の一つであることを指摘する。「劇場型政治」とは、「政策の中身であるとか政策を実現するための様々な手続きなどではなく、政治家が繰り出すパフォーマンスの部分に人々が反応し、それだけではなく、人々の実際の政治行動にまで結びついていく政治のパターン」であると、平井氏はいう。そして市長は、そのパフォーマンスをインターネット(ブログ)とマスコミを利用して展開し、それにより一定の人々から支持を得るようになった。
そのパフォーマンスの内容は、「レッテル貼り」である。つまり何ものかを「敵」として、その「敵」を攻撃する。これは90年代の政治改革論議の中で、小沢一郎氏らが「守旧派」と攻撃した如く、また小泉首相が郵政選挙で行ったような、そういうパフォーマンスである。
そしてそのパフォーマンスは、「抽象化された政治・感情の政治」、すなわち抽象的な語彙をつかい、同時に自らも感情的な発言を行って人々の感情を動かしていく。
第二にマスコミの問題点を、平井氏は指摘する。「劇場型政治」は、マスメディアが動いてくれなければどうしようもないからだ。マスメディアが、無原則に、批判的視点をまったくもたずに、面白おかしく伝達する、そのこと自体の問題性である。とくに権力をもつ者に、きっちりとした批判できるかどうか、ということであるが、残念ながらそういうメディアはほとんどなくなっているのが実状だ。
次に、なぜそういうパフォーマンスをする「首長」に、人々は支持を与えるのか。平井氏は「ジェラシーの政治」という問題を提起する。たとえば「暴走する首長」はとにかく公務員を非難する。高給をもらっているとか、仕事をしないとか・・・もっと人件費を削れとか、とにかく公務員を攻撃する。一般公務員は、決して経済的に優位な収入を得ているわけではない。中央省庁の高級官僚とは、まったく異なる。にもかかわらず、すぐ近くにいる公務員を叩く。経済状況が芳しくないなかで、収入が低下している人々がジェラシーをもって攻撃するのだが、しかし攻撃して公務員の給与を下げれば、巡りめぐって自分の給与をさらに下げていくことに思いを馳せないのだ。「足の引っ張り合い」により、さらに自らをおとしめようとしているのだ。
そして「首長」とその支持者は、現在ある民主的な制度を無視して、強引に自らが思い込む「改革」を推進しようとする。「政治の文法」を無視するのだ。
その際、議会そのものの問題がある。機能しない議会の存在は、全国的に見られる光景である。利益配分政治の時代、議員はそれぞれの選挙区に「利益」をもたらすために存在し、選挙民はそれでよしとしていた。しかし、利益配分政治が崩壊したあと、議員のそういう「働き」は消えていき、議員は一体何をしているのか、という疑問が出てきた。阿久根の市長は、そこを衝いてきたのだ。
いったい議員はどうあるべきなのか、そういう根本的な問題を考えていくことが求められる時代に、今はある。
さらに平井氏は、「新自由主義心性」を指摘する。「これまでの政府の役割や活動を極限にまで縮減して、市場の論理、民間の論理に委ねることをよしとする感覚ないし考え方」のことをいう。連帯などヨコにつながる精神、助け合いの精神、そういう発想が失われてきているのだ。
「人々の憎悪と対立を生み出すジェラシーの政治に対抗して、相互の信頼と連帯を生み出す政治のあり方を模索しなければなりません」と、平井氏は主張する。
平井氏の主張は、いろいろな文献から示唆を受けているのだが、そこに紹介されている本は私も読みたくなるようなものが多かった。
この本は2000円+税、図書館から今日午後借りてきたのだが、一挙に読んでしまった。よい本だ。
阿久根市なんて知らなかった(失礼)が、市長が「暴走」したことから阿久根市は「全国区」になった。しかしここで起きたことは決して阿久根市だけの問題ではなく、大阪などでも起きている「首長の暴走」について考える糸口が示されている。
阿久根市の事態については詳しくここに紹介する必要はないだろう。問題は、なぜこういう事態が生起したのか、それを現代日本社会の文脈から考えていくことが求められる。
平井氏が、この問題をどう考えているか紹介しておこう。
まず阿久根市長は、今はやりの「劇場型政治」の一つであることを指摘する。「劇場型政治」とは、「政策の中身であるとか政策を実現するための様々な手続きなどではなく、政治家が繰り出すパフォーマンスの部分に人々が反応し、それだけではなく、人々の実際の政治行動にまで結びついていく政治のパターン」であると、平井氏はいう。そして市長は、そのパフォーマンスをインターネット(ブログ)とマスコミを利用して展開し、それにより一定の人々から支持を得るようになった。
そのパフォーマンスの内容は、「レッテル貼り」である。つまり何ものかを「敵」として、その「敵」を攻撃する。これは90年代の政治改革論議の中で、小沢一郎氏らが「守旧派」と攻撃した如く、また小泉首相が郵政選挙で行ったような、そういうパフォーマンスである。
そしてそのパフォーマンスは、「抽象化された政治・感情の政治」、すなわち抽象的な語彙をつかい、同時に自らも感情的な発言を行って人々の感情を動かしていく。
第二にマスコミの問題点を、平井氏は指摘する。「劇場型政治」は、マスメディアが動いてくれなければどうしようもないからだ。マスメディアが、無原則に、批判的視点をまったくもたずに、面白おかしく伝達する、そのこと自体の問題性である。とくに権力をもつ者に、きっちりとした批判できるかどうか、ということであるが、残念ながらそういうメディアはほとんどなくなっているのが実状だ。
次に、なぜそういうパフォーマンスをする「首長」に、人々は支持を与えるのか。平井氏は「ジェラシーの政治」という問題を提起する。たとえば「暴走する首長」はとにかく公務員を非難する。高給をもらっているとか、仕事をしないとか・・・もっと人件費を削れとか、とにかく公務員を攻撃する。一般公務員は、決して経済的に優位な収入を得ているわけではない。中央省庁の高級官僚とは、まったく異なる。にもかかわらず、すぐ近くにいる公務員を叩く。経済状況が芳しくないなかで、収入が低下している人々がジェラシーをもって攻撃するのだが、しかし攻撃して公務員の給与を下げれば、巡りめぐって自分の給与をさらに下げていくことに思いを馳せないのだ。「足の引っ張り合い」により、さらに自らをおとしめようとしているのだ。
そして「首長」とその支持者は、現在ある民主的な制度を無視して、強引に自らが思い込む「改革」を推進しようとする。「政治の文法」を無視するのだ。
その際、議会そのものの問題がある。機能しない議会の存在は、全国的に見られる光景である。利益配分政治の時代、議員はそれぞれの選挙区に「利益」をもたらすために存在し、選挙民はそれでよしとしていた。しかし、利益配分政治が崩壊したあと、議員のそういう「働き」は消えていき、議員は一体何をしているのか、という疑問が出てきた。阿久根の市長は、そこを衝いてきたのだ。
いったい議員はどうあるべきなのか、そういう根本的な問題を考えていくことが求められる時代に、今はある。
さらに平井氏は、「新自由主義心性」を指摘する。「これまでの政府の役割や活動を極限にまで縮減して、市場の論理、民間の論理に委ねることをよしとする感覚ないし考え方」のことをいう。連帯などヨコにつながる精神、助け合いの精神、そういう発想が失われてきているのだ。
「人々の憎悪と対立を生み出すジェラシーの政治に対抗して、相互の信頼と連帯を生み出す政治のあり方を模索しなければなりません」と、平井氏は主張する。
平井氏の主張は、いろいろな文献から示唆を受けているのだが、そこに紹介されている本は私も読みたくなるようなものが多かった。
この本は2000円+税、図書館から今日午後借りてきたのだが、一挙に読んでしまった。よい本だ。