浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

新国立競技場は建設できるか

2016-01-17 23:47:20 | 政治
 『世界』2月号は、「理念なきオリンピック」を特集している。

 そこで例の新国立競技場、ザハ案が捨てられて、隈案が採用されたが、施設規模が1割減らされただけで、計画敷地も縮小されず、建物の高さも変わらないという、要は国民から批判されたから変えたけれども、しかし中身は変えないということなのだろう。

 実際、ザハ案と比べて外見だけは変わっているが、中はほとんどザハ案と同じだという。

 それについて、リテラが興味深い記事を載せている。

http://lite-ra.com/2016/01/post-1898.html


 果たして、新国立競技場は建設できるのか。
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佐多稲子

2016-01-17 17:57:30 | 日記
 昨日今日はセンター試験だ。今日の新聞に昨日行われた試験問題が掲載されていた。「国語」という科目なのか定かではないが、小説として佐多稲子のそれがあった。

 佐多稲子はプロレタリア文学者であった。佐多は、姉の卒論が佐多稲子だったこともあって、彼女の本がたくさんあったのでほとんどを読んだことを記憶している。小説には社会性もあり、また女性らしい文体だと感じた覚えもある。

 センター試験に掲載された小説は、「三等車」である。昔の国鉄は、一等車から三等車まであった。一等車は、いうまでもなく今のグリーン車である。三等車は、したがって庶民が乗る。

 その庶民の乗る三等車で見たこと、体験したことを、佐多は記したのだろう。
 みずからも庶民であるという自覚をもっている佐多は、そこに乗ってきた親子連れの姿を描くのだが、彼らをみる視線は優しく暖かく、親子連れの姿を通して、その時代の庶民の生活を浮き彫りにする。また見送りに来た父親のがとるであろう行動や心境をも予測する。

 とても狭いところで起きた一コマを描いたこの作品は、さすがにプロレタリア文学者らしく、時代の相を描き出している。さらにそこに析出された庶民の日常をも推測させる。「貧困」。「貧困」により、家族が一緒に生活できないという現実。母子は遠く鹿児島まで行くのだ。三等車に乗って。

 佐多の作品には、余韻がある。父親のいない生活が鹿児島で、また始まるのだ。少年にとって、父親のいない生活はいかがなものだろう。

 人生はその後も続くから、その後の人生に思いを馳せる。その後の人生に幸多かれと思いながら、「三等車」を読み終えた。

 佐多の作品が採用されたことにうれしさを感じる。佐多の作品を、もう一度、読んでみようかなと思う。

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テレビメディアの「自殺」

2016-01-17 15:07:21 | メディア
 2016年は、テレビメディアが「自殺」した年として記憶されるだろう。新聞であろうとテレビであろうと、ジャーナリズムの本質は権力監視である。しかし、テレビメディアはジャーナリズムの世界から去り、現在は残されているスポット的な番組しかない。「報道ステーション」であり、「NewS23」であるが、今年の4月から、それらは大きく変わる。前者では、古舘が去り、後者からは岸井が去る。

 テレビメディアに残されてたスポット的なジャーナリズムがなくなれば、テレビはもはや見るに値しないものと化す。

 NHK、日本テレビ系列、フジテレビ系列のニュース番組は、すでにアベ政権の支配下入り、そしてテレ朝、TBSもその軍門に降る。

 日本のテレビメディアの北朝鮮化は止まるところを知らない。

 ファシズム国家への変転の完成時期が近づいている。もはや日本の未来には、暗雲が待つ。

http://lite-ra.com/2015/11/post-1733.html
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民間企業、礼賛の政治

2016-01-17 10:19:16 | 政治
 軽井沢でのバス転落事故は、未来のある若者の命を、無残にも奪い去ってしまった。本当に痛ましく、悔しい。

 今日の『中日新聞』一面は、この事故に関連して、バス会社イーヱスビーは運転者の健康管理の確認をせず、旅行を企画したキースツアーは法定運賃は27万円以上を支払わなければならないのに、同バス会社は19万円で請けたということだ。また運行指示書には、発着点しか記されていなかったという。

 何という杜撰な会社であることか。事故の二日前の13日には、行政処分さえ受けている。運転手に健康診断を受けさせていなかったことなどから行われたその行政処分も、所有しているバスの一台だけの運行停止で、それでは「処分」にはなっていないだろう。

 この事件について、行政の責任が大きいといわざるをえない。こういういい加減なバス会社による事故は今までにも起きている。「規制緩和」で、多くの民間企業が参入し、過当競争の中で価格が下落し、同時に安全がどこかへ消えていった。そういう事故が起きても起きても、実効ある規制を行政は行ってこなかった。何人が死ねば実効ある規制をするのか。

 民間企業は「合理的な」経営をするからといって、自治体などがおこなってきた業務を「民間委託」や「アウトソーシング」などといって、外部(民間企業)へ放出してきた。その結果、低賃金の非正規労働者を増やしてきた。その背景にある考え方は、民間企業を「善」、あるいは礼賛する思想だ。
 民間企業の経営の原動力は、カネである。カネのためには何でもする。規制がなければ、民間企業は悪魔となってかねもうけにはしるということだ。しかし新自由主義は「規制緩和」という規制撤廃で、「民間企業」を野放しにしてきたのだ。
 
 CoCo壱番屋の廃棄食品を受け入れた「ダイコー」という産廃処理業者が、それを食品として流通させていたことが明るみになった。「ダイコー」から食品を受け入れていた食品卸売業「みのりフーズ」の代表者は、「これだけですか」という記者の質問に「そうだ」といいながら、他にも受け入れていたことがわかった。平気で不正を働き、ウソもつく、そういう輩が「民間企業」として事業を行っているのだ。

 資本主義にはそれこそ倫理が求められる。アダムスミスが『道徳感情論』を書いたのもそういう点を危惧したからだろうが、しかし倫理や道徳を、「民間企業」の経営者がもっているわけではないことが、これらの事例でも明確に示されている。何度も何度も、そうした事例が報道されている。

 行政は、規制緩和ではなく、規制の強化に、それも実効ある規制を強化すべきである。

 民間企業については、「性善説」ではなく、「性悪説」にたって対処すべきである。

 バス転落事故で亡くなられた方々、そしてその家族の皆さんの悲しみを思うと、怒りが湧いてくる。

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