昨年の『思想』12月号に、「追悼 鶴見俊輔」という座談会が掲載されている。
余分なことだが、この号に掲載されている論文、「霊性論」、「カントの超越論的観念論の歪んだ論理空間」など、一般社会にうごめく庶民とは全く無関係の論考が並ぶ。こういう知識階級の言説と、庶民の生活における言説とは、おそろしいほどの乖離がある。知識階級は、そうした乖離を埋めようとしない。
さて、鶴見の思想が、栗原彬、見田宗介、吉見俊哉によって紹介されていくのだが、「権力者」に関する鶴見の「恐れ」がもっとも関心を抱いた。
(鶴見は)自分はうっかり権力者になってしまうかもしれないと。そのことに対する恐れに、ものすごく敏感なのです。
本当は世の中っていうものは、加害と被害の無数の連鎖であって、全ての人が、どんなに底辺に近い人でも、もっと下の人とか周りの弱い人に対しては、権力者になってしまう恐れがあるわけでしょう。そういうことに対する自覚みたいなものが、鶴見さんには強くあった。
ボクは、今までも何度か書いてきているが、人間にはタテ関係に生きる人とヨコ関係に生きる人がいて、前者のほうがずっと多いこと、ヨコ関係に生きる人びとはそんなに心配しなくても「権力者になってしまう」ことはほとんどないということだ。鶴見は、もちろんヨコ関係に生きる人。だから鶴見の「恐れ」は、タテ関係に生きる人の杞憂なのである。鶴見は、自然体でいたのであって、意識的に「権力者になってしまう」ことのないようにしていたということはないだろうと、ボクは思う。
ちなみに、ヨコ関係に生きる人とタテ関係に生きる人とは、もちろん交流できるが、その交流は長つづきはしないということだ。ヨコ関係に生きる人びとの周りには、ヨコ関係に生きる人びとが集まる。その方が居心地がいいからだ。
タテ関係に生きる人びとが、「権力者に」なろうと努力している姿、上にへつらい下に居丈高になる姿を横目で見ながら、ヨコ関係に生きる人びとはおのれの生きる道を歩むのである。
余分なことだが、この号に掲載されている論文、「霊性論」、「カントの超越論的観念論の歪んだ論理空間」など、一般社会にうごめく庶民とは全く無関係の論考が並ぶ。こういう知識階級の言説と、庶民の生活における言説とは、おそろしいほどの乖離がある。知識階級は、そうした乖離を埋めようとしない。
さて、鶴見の思想が、栗原彬、見田宗介、吉見俊哉によって紹介されていくのだが、「権力者」に関する鶴見の「恐れ」がもっとも関心を抱いた。
(鶴見は)自分はうっかり権力者になってしまうかもしれないと。そのことに対する恐れに、ものすごく敏感なのです。
本当は世の中っていうものは、加害と被害の無数の連鎖であって、全ての人が、どんなに底辺に近い人でも、もっと下の人とか周りの弱い人に対しては、権力者になってしまう恐れがあるわけでしょう。そういうことに対する自覚みたいなものが、鶴見さんには強くあった。
ボクは、今までも何度か書いてきているが、人間にはタテ関係に生きる人とヨコ関係に生きる人がいて、前者のほうがずっと多いこと、ヨコ関係に生きる人びとはそんなに心配しなくても「権力者になってしまう」ことはほとんどないということだ。鶴見は、もちろんヨコ関係に生きる人。だから鶴見の「恐れ」は、タテ関係に生きる人の杞憂なのである。鶴見は、自然体でいたのであって、意識的に「権力者になってしまう」ことのないようにしていたということはないだろうと、ボクは思う。
ちなみに、ヨコ関係に生きる人とタテ関係に生きる人とは、もちろん交流できるが、その交流は長つづきはしないということだ。ヨコ関係に生きる人びとの周りには、ヨコ関係に生きる人びとが集まる。その方が居心地がいいからだ。
タテ関係に生きる人びとが、「権力者に」なろうと努力している姿、上にへつらい下に居丈高になる姿を横目で見ながら、ヨコ関係に生きる人びとはおのれの生きる道を歩むのである。