浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】堀川惠子『裁かれた命』(講談社文庫)

2016-01-07 12:17:39 | 
 昨日久しぶりに書店に行った。本はほとんど通販で購入しているから、書店で買うことは少ない。しかし読むべき本は、実際に書店に足を運ばないと見つけられないこともある。

 文庫本の棚を見ていたら、堀川惠子という名を見つけた。テレビドキュメンタリーのディレクターとして数々の作品を制作し、またみずから取材し制作したドキュメントに関して書物にもしている。堀川の取材力、筆力には、感服している。ついでに女性では、黒岩比佐子、梯久美子らに感服している。

 『裁かれた命』。ボクはすぐに眠りに入らないため、毎夜布団の中に入ってから少し本を読む。昨夜この本を読みはじめたら、なかなか眠れなくなってしまった。読むのをやめ、とにかく寝たが、朝起きてから再び読みはじめた。この本には、あまりにもたくさんの事実が詰まっている。

 まず死刑の問題。これが主要なテーマであろうが、日本社会は今応報的な雰囲気が強く、刑罰が厳罰化されてきている。時代によって変化するというのも、法治主義の時代ではおかしいことではあるが、それが現実だ。

 しかし応報的に、死刑に値する犯罪を犯したから死刑にする、という短絡的な判断はいかがなものかという気持ちはずっとボクは持ち続けている。大学で被疑者の権利などについてみっちりと学んできているので、そうした発想には違和感をもっている。

 この本の主人公は、検察のエリートであった土本武司である。1966年、ひとりの主婦が殺された。犯人は若者であった。長谷川武である。逮捕された後彼はすらすらと犯行を自供し、当時の量刑観から死刑相当であると、捜査検事であった土本は判断した。

 第一審の判決は死刑、そして第二審。長谷川は、みずからを罰すべく死刑を甘受していたが、国選弁護人となった小林健治は、誠実に調査した結果、死刑に値しないのではないか、死刑判決を受けた長谷川は生きるべきではないかと考え、そのために手弁当で尽力した。しかし二審も死刑判決だった。そして上告。しかし棄却され確定した。

 長谷川は拘置所で、みずからを凝視し、小林や土本に手紙を書き、そのときそのときの心境を書き送る。そこにはみずからの罪を悔い、誠実に生きようとする青年の姿があった。だが、死刑は執行された。

 土本は、この本の著者堀川の取材結果に沿いながら、その青年の逮捕後の軌跡、そしてその青年のまわりの家族や関係者らの生の軌跡を知る。土本は、ひょっとしたら、若い駆け出しの検事であった自分の当時の判断は間違っていたのではないかと思い始める。

 ひとつの犯罪には、単にその犯罪を起こした者の責に帰すことができない様々な家庭的な、社会的な背景が存在する。人の罪を判断する、裁くということは、簡単ではないことがよくわかる。

 裁判員制度が発足してかなりの時間が経過している。人を裁くという重さ、そして死刑という刑罰がもつ大きな限界、ボクらはそれを見つめなければいけないだろう。死刑を求刑したり、死刑判決を下した法曹関係者は、いつもその判断の重荷を背負いながら生きている。その重荷を、ボクらは知らなければならない。

 とてもよい本である。堀川の本はすべて読むべき本である。

 なお、この本を、殺された被害者の家族に読んでもらいたいと思う。

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北朝鮮のこと

2016-01-07 08:59:35 | 国際
 今日の新聞は、北朝鮮の「水爆実験」の記事がほとんどである。しかしボクは、北朝鮮の「水爆実験」が成功(?)したとは思っていない。はたしてそれだけの技術力があるのか疑問だからでもある。

 しかしとにかく北朝鮮は、核保有国と国際的に認知されたいのである。それが嘘であっても、である。

 以前、某出版社の仕事で、戦後の韓国、北朝鮮の歴史を調べたことがある。もう5年以上前に原稿を渡しているからどうなったのかはわからないが(もし出版されるとするなら、買い足さなければならない代物だ)、北朝鮮の国際関係を調べていて、とにかく国際的にはほとんど無視されても仕方がない、それこそ小国であり、また問題を多く抱えている国家が、国際的に認知されること、とくにアメリカに対してその存在を認知させようとする並々ならぬ努力で一貫している、というのが感想であった。石油もなく、地政学的にも無視されても仕方がない国が、アメリカに対してその存在を必死にアピールする、それが北朝鮮の外交政策である。その原動力になっているのが、「金王朝」を存続させることである。

 朝鮮戦争でアメリカと戦争し、その戦争は「休戦」しているだけであって、講和条約が結ばれたわけではなく、いまだその戦争は終わっていないのだ。朝鮮戦争の際には、北朝鮮にはソ連や中国があった。しかしソ連は崩壊し、中国は北朝鮮を積極的に支えてくれるわけではない。いわば孤立無援である。その北朝鮮が、落日期にあるとはいえいまだ大国であるアメリカと交渉しなければならない、下手をするとイラクやリビアのように軍事的に崩壊させられるかもしれないという恐怖の対象であるアメリカと交渉しなければならないのである。

 アメリカに対して、「俺たちを無視するな、俺たちは強いんだぞ」と強がりを言える根拠と言ったら、それこそ「核保有国」であることしかない。通常兵器をいくらもっていても、やはり「核兵器」をもたないと「対等」には扱ってもらえない。

 ちなみにこの考えは、日本の支配層も共有しているのであって、みずからを「強国」と国際的に認知してもらいたい彼らは、核兵器を持てないが故に原発と、そしてすぐに核兵器がつくることができるのだというアピールを国際的に発していたいのである。みずからを国際的に「大国」ではなく、「小国」と位置づけるようにすれば、問題は片付くのに・・・だからこそ、今年は日本の小国主義化を訴えていきたいと考えている。  

 
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