私は、この人は選挙ポスターを見たときから、偽る人だと思っている。若い頃の写真を使って、現在とは似ても似つかない撰挙ポスターをつくっていた。
今でも自分はキレイだと思っているのだろうか、なかなか厚化粧で、つけまつげなんかやっているようだ。
大臣となってから、週刊文春、週刊新潮で、口利き疑惑などが明らかになったが、今度は祭りの寄付。
これらの疑惑に、すべて全面否定。証拠があっても、とにかく全面否定。
今でも自分はキレイだと思っているのだろうか、なかなか厚化粧で、つけまつげなんかやっているようだ。
大臣となってから、週刊文春、週刊新潮で、口利き疑惑などが明らかになったが、今度は祭りの寄付。
これらの疑惑に、すべて全面否定。証拠があっても、とにかく全面否定。
9月20日くらいから体調を崩し、よくなったと思うと悪くなる。最初は風邪だった。治ったと思ったら、喉に痰があるようなないような。そして時々変な咳をする。それが続いていた。
火曜日、耳鼻咽喉科に行き、鼻からカメラを入れて喉の奥まで診てもらった。異常なし。翌水曜日、今度は内科に行った。症状を話し、気管支の薬を処方してもらった。これが高額であった。「シムブコート タービュヘイラー」という。口から気管支に薬を吸入するのだ。これを含めて、アレルギー性鼻炎などの薬代が3800円。ということは一万円くらい。
この吸入を始めて調子がよい。まだ喉のあたりの違和感はあり、また咳も少しは出るが、体が軽くなった。
となると、畑。体調不良のため、あまり行っていなかったから、厖大な作業が残っている。サツマイモの収穫、レタス、キャベツ、白菜、ほうれんそう、大根その他の種まき、苗の植え付け、これは季節ものだから、今ごろを逃すと収穫できなくなる。それにそれらを植えるところをつくらねばならない。
昨日午後2時間半、ひたすら畑で体を動かし続けた。午後は締め切りのある仕事をして郵便局に。書留で送る。今日は午前中3時間強。明日は雨だそうだ。できるかぎりの作業をしてきた。
今は疲労困憊。昼食もふかしたサツマイモを食べておしまい。つくる気力も無いのだ。
その間、一冊の本を読み終えた。近藤康太郎の『おいしい資本主義』(河出書房新社)である。この人の名は、『Journalism』10月号で初めて読んだ。「アロハで田植えの記者が伝えるそれでも新聞であがく理由」という題、リズミカルで小気味よい文体で、面白おかしく書いていく。背後に流れる批判精神、そしていろいろな本を読んで蓄積された知性、批判精神と知性は別に表に出ているわけではない、読んでいればわかる、つまり隠されている。
この人は東京出身で、朝日新聞社に入っても田舎暮らしがない。50歳を過ぎて九州の諫早支局へと、望んで転勤。ふつうはこの年齢だと東京本社で編集委員んなのだろうが、彼は農業をするために諫早へ。
諫早での米作りの体験を書いたのがこの本である。「おいしい資本主義」という本のタイトルと米作りとがどうつながるのか、そこには彼の現代資本主義に対する疑問、批判がある。
今彼は、大分県日田支局長、ここでも米作りをしているのだろうか。
朝日新聞社で検索したら、最近の記事は、アレサ・フランクリンの「惜別」。末尾がよい。
アレサ・フランクリンは、
よく公民権運動や女性解放運動に結びつけて語られるが、かつてこう話していた。「街にいるふつうの人、ビジネスマン、母親、消防士、学校の先生、すべての人へのリスペクトが必要なんです」
リスペクトとは、他人の世界観に立ってみること。自分の牢固な視点を変えること。つまり、カバーすること。
自分を、自由にすることだ。(近藤康太郎)
私も退職後農業をしているから、『おいしい資本主義』、読んでいてよくわかる。農業も、リスペクトできる仕事なのだ。あんがいたいへんな仕事なのに、やらされているという気持ちはない。私は、汗みどろになる作業を自主的に、喜んでやっている。
しばらくいかないと心配になるし、作業をしていていろいろな動物、蛙、ヘビ、クモ、ミミズ・・と会話するのがよい。この前も落花生を掘っていたら、背後にカラスが。私に分け前をくれよと言っていた。今日は、掘り返したら蛙が跳び出て来た。安眠を妨害するな、だって。
私も、これらの動物も、自然に生かされている、そういう気持ちになる。
火曜日、耳鼻咽喉科に行き、鼻からカメラを入れて喉の奥まで診てもらった。異常なし。翌水曜日、今度は内科に行った。症状を話し、気管支の薬を処方してもらった。これが高額であった。「シムブコート タービュヘイラー」という。口から気管支に薬を吸入するのだ。これを含めて、アレルギー性鼻炎などの薬代が3800円。ということは一万円くらい。
この吸入を始めて調子がよい。まだ喉のあたりの違和感はあり、また咳も少しは出るが、体が軽くなった。
となると、畑。体調不良のため、あまり行っていなかったから、厖大な作業が残っている。サツマイモの収穫、レタス、キャベツ、白菜、ほうれんそう、大根その他の種まき、苗の植え付け、これは季節ものだから、今ごろを逃すと収穫できなくなる。それにそれらを植えるところをつくらねばならない。
昨日午後2時間半、ひたすら畑で体を動かし続けた。午後は締め切りのある仕事をして郵便局に。書留で送る。今日は午前中3時間強。明日は雨だそうだ。できるかぎりの作業をしてきた。
今は疲労困憊。昼食もふかしたサツマイモを食べておしまい。つくる気力も無いのだ。
その間、一冊の本を読み終えた。近藤康太郎の『おいしい資本主義』(河出書房新社)である。この人の名は、『Journalism』10月号で初めて読んだ。「アロハで田植えの記者が伝えるそれでも新聞であがく理由」という題、リズミカルで小気味よい文体で、面白おかしく書いていく。背後に流れる批判精神、そしていろいろな本を読んで蓄積された知性、批判精神と知性は別に表に出ているわけではない、読んでいればわかる、つまり隠されている。
この人は東京出身で、朝日新聞社に入っても田舎暮らしがない。50歳を過ぎて九州の諫早支局へと、望んで転勤。ふつうはこの年齢だと東京本社で編集委員んなのだろうが、彼は農業をするために諫早へ。
諫早での米作りの体験を書いたのがこの本である。「おいしい資本主義」という本のタイトルと米作りとがどうつながるのか、そこには彼の現代資本主義に対する疑問、批判がある。
今彼は、大分県日田支局長、ここでも米作りをしているのだろうか。
朝日新聞社で検索したら、最近の記事は、アレサ・フランクリンの「惜別」。末尾がよい。
アレサ・フランクリンは、
よく公民権運動や女性解放運動に結びつけて語られるが、かつてこう話していた。「街にいるふつうの人、ビジネスマン、母親、消防士、学校の先生、すべての人へのリスペクトが必要なんです」
リスペクトとは、他人の世界観に立ってみること。自分の牢固な視点を変えること。つまり、カバーすること。
自分を、自由にすることだ。(近藤康太郎)
私も退職後農業をしているから、『おいしい資本主義』、読んでいてよくわかる。農業も、リスペクトできる仕事なのだ。あんがいたいへんな仕事なのに、やらされているという気持ちはない。私は、汗みどろになる作業を自主的に、喜んでやっている。
しばらくいかないと心配になるし、作業をしていていろいろな動物、蛙、ヘビ、クモ、ミミズ・・と会話するのがよい。この前も落花生を掘っていたら、背後にカラスが。私に分け前をくれよと言っていた。今日は、掘り返したら蛙が跳び出て来た。安眠を妨害するな、だって。
私も、これらの動物も、自然に生かされている、そういう気持ちになる。