(「日本社会党・社会民主党の旗を降ろすのか?」というテーマで、社民党系の機関紙に寄せた文である。社民党中央は、解党にむけて走っているようだ。社民党中央も、どうやら腐臭を放っているような気がする。)
日本社会党
日本社会党が結党されたのは、1945年11月、敗戦直後である。戦前の無産政党・労働運動・農民運動関係者によって設立された日本社会党は、問題を抱えながらも一定の議員数を確保し、労働運動のナショナルセンターであった総評とともに、社会党・総評ブロックとして「護憲」の旗を掲げ、労働者や国民の生活擁護に大きな役割を果たしてきた。名称を日本社会党から社会民主党に変更したとは言え、社会民主党は、そうした歴史に誇りを持つべきである。
日本社会党のつまずき
しかし現在、社会民主党の政治勢力はその歴史を振り返ると、あまりにも弱小となってしまった。私はその原因を、お人好しの社会党指導部が支配層の戦略を読めなかったこと、同時にそれを可能にした主体性の欠如に求める。
最近亡くなった中曽根康弘は、1987年に国鉄分割民営化を実現した。後に中曽根は、その目的が労働運動の中核であった国鉄労働組合をつぶし、さらにそれにより総評を解体し、日本社会党を潰滅させることであったと語っている。つまり支配層は、日本社会党の潰滅を企んでいたのである。
それに対して日本社会党はどう対応したか。私は2017年11月のここにこう記した。
日本社会党は、細川護煕政権(1993・8~1994・4)の与党となった。その時、日本社会党の議席数は70。細川政権は、「小選挙区制比例代表並立制」という選挙制度を導入しようとした。前号に記したように、小選挙区制は民主主義を踏みにじる泥靴であった。その選挙制度に、日本社会党は賛成した。社会党の議席は、中選挙区制であるが故に確保できていたのに・・。小選挙区制に賛成するということは、みずからの足元を掘り崩すものであった。その通りに、次の総選挙(1996・10)で社会民主党は15議席に後退した。1991年に出版された『小沢一郎探検』(朝日新聞社)には、「社会党をぶっ壊さなきゃならない。それには小選挙区制という制度を、ほかにいい知恵があればほかでもいいんだけど、やらなきゃいかん」という小沢一郎の発言が紹介されている。驚くべきことに、小沢の意図を、日本社会党みずからが実現してあげたのだ。
そして、1996年1月、日本社会党は社会民主党となった。原彬久はこの改称について、「この党名変更は、党の心機一転、さらなる躍進のシグナルではなく、半世紀に及ぶ党史への晩鐘となった。事実、日本社会党はこのときすでに昔日の面影を遠くに残し、党名変更に合わせるかのようにその歴史的役割を終えようとしていた」(『戦後史のなかの日本社会党』中公新書、2000年)と書いている。まったく同感である。
ここに記したように、支配層は中曽根内閣以降、日本社会党を潰滅させる施策を展開sしてきた。その一環でもある小選挙区制の導入に賛成した日本社会党指導部は、まさに支配層の企み通りに行動したことを示している。「愚行」というしかない。
しかし社民党は、現在もしぶとく残っている。
県内における社会党
社会民主党静岡県連合には、静岡県内の日本社会党・総評ブロックの活動の資料がたくさん残っている。それらをもとに、現在、「社会運動史」の編さん事業が進んでいる。
静岡県内の様々な運動は、社会党や県評などを主要な担い手として展開してきた。警職法反対闘争、60年安保闘争、原水禁運動、浜岡原発反対運動、沼津・三島・清水町における石油化学コンビナート反対運動、富士市における公害をめぐる住民運動、浜松市における反基地闘争等々。そして県議会に社会党議員が多数いた頃には、県の実状を分析して政策を提起するという活動も行っている。静岡県でも、日本社会党はたいへん大きな役割を果たしてきた。
立憲民主党の要請
「党報しずおか」287号が送られてきた。それには全国連合常任幹事会の討議資料「立憲民主党・枝野代表からの「よびかけ」について」という文書も添付されていた。社民党指導部は、枝野代表の要請を受けいれる方向であるようだ(「Ⅳ 常任幹事会の考え方」)。
しかし、と私は思う。まず第1に、立憲民主党や国民民主党は、離合集散を繰り返してきた議員政党である。各地域に地盤を持っているわけではない。歴史もない。国民民主党は、原発推進の労働組合に支えられている。第2に、ここでも、日本社会党指導部の主体性のなさが現れていると私は思う。枝野代表の呼びかけがなかったら、こういう動きは起きなかったはずだ。
私は、先に引用した支部報の末尾にこう記した。
1990年代、日本社会党の原点を忘れ去り、小選挙区制に賛成し、村山政権時代には「日米安保堅持」を言明した自滅への歴史。今の社民党の活動内容をみるとき、これは見直すべき歴史ではないのか。しかし、それもせずに社会民主党はあり続ける。あたかも消え去るのを待っているかのように。社民党中央は、社会民主党の旗を掲げて地道に活動している地方の活動家に申し訳ないと思わないのか。このままでよいと思っているのか。
社民党指導部は、過去の間違った選択の総括もせず、また現在の社民党の窮状を主体的に打開する道を示さず、他党の代表の呼びかけにみずからの「解党」を考えているようだ。
立憲民主党が合併しようとしている国民民主党は、旧民進党から引き継いだ100億円ともいわれる政治資金を保有しているという。国民民主党の支持率は、社民党とほぼ同じ。しかし国民民主党にはカネがある。社民党にはない。そうなると、社民党は立憲民主党に「併合」されるという事態になりかねない。社民党指導部の主体性のなさは、社民党それ自体を最終的に消す、というというところまできているようだ。
『サンデー毎日』のコラムを書いている牧太郎は、こう記している(同誌、2019年4月28日号、「平成とは――「カネと数」の小沢一郎が「革新」を潰した!」)。
「理念」を捨て大同団結? 結構だが「理念」を捨てて一緒になれる「価値」とは何だろう?
全国連合常任幹事会の討議資料には、「党を維持する選択をした場合には、党組織をどのように維持していくのか、具体的な方策と実践が問われる」とある。社民党は、そうした議論を、まずすべきではないか。
まさに今、社民党の主体性が問われているのだ。
日本社会党
日本社会党が結党されたのは、1945年11月、敗戦直後である。戦前の無産政党・労働運動・農民運動関係者によって設立された日本社会党は、問題を抱えながらも一定の議員数を確保し、労働運動のナショナルセンターであった総評とともに、社会党・総評ブロックとして「護憲」の旗を掲げ、労働者や国民の生活擁護に大きな役割を果たしてきた。名称を日本社会党から社会民主党に変更したとは言え、社会民主党は、そうした歴史に誇りを持つべきである。
日本社会党のつまずき
しかし現在、社会民主党の政治勢力はその歴史を振り返ると、あまりにも弱小となってしまった。私はその原因を、お人好しの社会党指導部が支配層の戦略を読めなかったこと、同時にそれを可能にした主体性の欠如に求める。
最近亡くなった中曽根康弘は、1987年に国鉄分割民営化を実現した。後に中曽根は、その目的が労働運動の中核であった国鉄労働組合をつぶし、さらにそれにより総評を解体し、日本社会党を潰滅させることであったと語っている。つまり支配層は、日本社会党の潰滅を企んでいたのである。
それに対して日本社会党はどう対応したか。私は2017年11月のここにこう記した。
日本社会党は、細川護煕政権(1993・8~1994・4)の与党となった。その時、日本社会党の議席数は70。細川政権は、「小選挙区制比例代表並立制」という選挙制度を導入しようとした。前号に記したように、小選挙区制は民主主義を踏みにじる泥靴であった。その選挙制度に、日本社会党は賛成した。社会党の議席は、中選挙区制であるが故に確保できていたのに・・。小選挙区制に賛成するということは、みずからの足元を掘り崩すものであった。その通りに、次の総選挙(1996・10)で社会民主党は15議席に後退した。1991年に出版された『小沢一郎探検』(朝日新聞社)には、「社会党をぶっ壊さなきゃならない。それには小選挙区制という制度を、ほかにいい知恵があればほかでもいいんだけど、やらなきゃいかん」という小沢一郎の発言が紹介されている。驚くべきことに、小沢の意図を、日本社会党みずからが実現してあげたのだ。
そして、1996年1月、日本社会党は社会民主党となった。原彬久はこの改称について、「この党名変更は、党の心機一転、さらなる躍進のシグナルではなく、半世紀に及ぶ党史への晩鐘となった。事実、日本社会党はこのときすでに昔日の面影を遠くに残し、党名変更に合わせるかのようにその歴史的役割を終えようとしていた」(『戦後史のなかの日本社会党』中公新書、2000年)と書いている。まったく同感である。
ここに記したように、支配層は中曽根内閣以降、日本社会党を潰滅させる施策を展開sしてきた。その一環でもある小選挙区制の導入に賛成した日本社会党指導部は、まさに支配層の企み通りに行動したことを示している。「愚行」というしかない。
しかし社民党は、現在もしぶとく残っている。
県内における社会党
社会民主党静岡県連合には、静岡県内の日本社会党・総評ブロックの活動の資料がたくさん残っている。それらをもとに、現在、「社会運動史」の編さん事業が進んでいる。
静岡県内の様々な運動は、社会党や県評などを主要な担い手として展開してきた。警職法反対闘争、60年安保闘争、原水禁運動、浜岡原発反対運動、沼津・三島・清水町における石油化学コンビナート反対運動、富士市における公害をめぐる住民運動、浜松市における反基地闘争等々。そして県議会に社会党議員が多数いた頃には、県の実状を分析して政策を提起するという活動も行っている。静岡県でも、日本社会党はたいへん大きな役割を果たしてきた。
立憲民主党の要請
「党報しずおか」287号が送られてきた。それには全国連合常任幹事会の討議資料「立憲民主党・枝野代表からの「よびかけ」について」という文書も添付されていた。社民党指導部は、枝野代表の要請を受けいれる方向であるようだ(「Ⅳ 常任幹事会の考え方」)。
しかし、と私は思う。まず第1に、立憲民主党や国民民主党は、離合集散を繰り返してきた議員政党である。各地域に地盤を持っているわけではない。歴史もない。国民民主党は、原発推進の労働組合に支えられている。第2に、ここでも、日本社会党指導部の主体性のなさが現れていると私は思う。枝野代表の呼びかけがなかったら、こういう動きは起きなかったはずだ。
私は、先に引用した支部報の末尾にこう記した。
1990年代、日本社会党の原点を忘れ去り、小選挙区制に賛成し、村山政権時代には「日米安保堅持」を言明した自滅への歴史。今の社民党の活動内容をみるとき、これは見直すべき歴史ではないのか。しかし、それもせずに社会民主党はあり続ける。あたかも消え去るのを待っているかのように。社民党中央は、社会民主党の旗を掲げて地道に活動している地方の活動家に申し訳ないと思わないのか。このままでよいと思っているのか。
社民党指導部は、過去の間違った選択の総括もせず、また現在の社民党の窮状を主体的に打開する道を示さず、他党の代表の呼びかけにみずからの「解党」を考えているようだ。
立憲民主党が合併しようとしている国民民主党は、旧民進党から引き継いだ100億円ともいわれる政治資金を保有しているという。国民民主党の支持率は、社民党とほぼ同じ。しかし国民民主党にはカネがある。社民党にはない。そうなると、社民党は立憲民主党に「併合」されるという事態になりかねない。社民党指導部の主体性のなさは、社民党それ自体を最終的に消す、というというところまできているようだ。
『サンデー毎日』のコラムを書いている牧太郎は、こう記している(同誌、2019年4月28日号、「平成とは――「カネと数」の小沢一郎が「革新」を潰した!」)。
「理念」を捨て大同団結? 結構だが「理念」を捨てて一緒になれる「価値」とは何だろう?
全国連合常任幹事会の討議資料には、「党を維持する選択をした場合には、党組織をどのように維持していくのか、具体的な方策と実践が問われる」とある。社民党は、そうした議論を、まずすべきではないか。
まさに今、社民党の主体性が問われているのだ。