維新の下地議員が、IRに関連して、2017年に中国企業・500ドットコムから100万円をもらっていたことを認めた。IRの推進のために働いてもらおうと下地議員にカネを渡したのだ。明らかに贈収賄事件である。カネをもらったとき、下地議員はそれを認識していたはずだ。このような時期に、カネを返せばすむという問題ではないだろう。
今まで、政治家の多くはそういうことをしてきたが、明るみに出てこない場合は頰被りし、公になったときに金を返せばすむ、と考えていること自体きわめてナンセンスである。
政界は、利権にまみれている。政治家はカネカネ・・・・とカネが出るところにとびつく。穢れすぎた世界だ。
今まで、政治家の多くはそういうことをしてきたが、明るみに出てこない場合は頰被りし、公になったときに金を返せばすむ、と考えていること自体きわめてナンセンスである。
政界は、利権にまみれている。政治家はカネカネ・・・・とカネが出るところにとびつく。穢れすぎた世界だ。
日本の政治はすべて利権である、というのが長年の政治監視の結論である。それは国政でも、地方自治体でも同様である。カネある者に公金であるカネがまわっていく。
「桜をみる会」に見られるように、国民が納めた税金は、安倍の選挙活動につかわれるなど私物化される。
『東京新聞』が6日に報じたこの記事もそれを端的に表す。これが新自由主義的施策である。見事なまでにその動きを示している。
クールジャパン機構、株主企業に出資 6社196億円還流
移住相談会 参加者に現金 国が推進 自治体が主催
「桜をみる会」に見られるように、国民が納めた税金は、安倍の選挙活動につかわれるなど私物化される。
『東京新聞』が6日に報じたこの記事もそれを端的に表す。これが新自由主義的施策である。見事なまでにその動きを示している。
クールジャパン機構、株主企業に出資 6社196億円還流
移住相談会 参加者に現金 国が推進 自治体が主催
昨日の『東京新聞』のコラム「新聞を読んで」に、筒井清忠氏が「大学知識人の限界」を書いている。松本清張が大学知識人を批判した小説を書いていたことを紹介している。
若い頃、清張の小説はたくさん読んだつもりでいたが、ここに記された「真贋の森」、「断碑」、「石の骨」、「カルネアデスの舟板」、いずれも読んだことはない。
「カルネアデスの舟板」は、歴史学者が、戦前戦中は国家主義的歴史学、戦後はマルクス主義史学へと転換し、豊かな生活を送る、というものらしい。学者の変節である。
学者には、変節する人が多い。学界で注目されて居続けたいという欲望があるのだろうか、学問内容だけではなく、その方法論についても変遷を重ねる、そのことによって注目され、その結果財産や名誉が転がり込む。
昨年、学生時代の同窓会を開くという連絡があった。その同窓会とは、なんらかの運動に関わった者たちが集まるものであった。しかし私は欠席した。学生時代、他の学生を煽っていた者は政府の審議会に入り、労働者にとってマイナスの政策を立案する者になったり、ある者はカネ儲けに勤しんでいたり、学生時代の思考とはまったく異なった立ち位置にある者がほとんどであったからだ。
学者の「変節」は、そんなに珍しいことではない。ある歴史学者は、マルクス主義的文献をもとに古代史を研究していたが、今では神話を史実としている。
「変節」する学者には、思想の核というものがないように思う。学問内容や、研究方法はその人の思想とつながらないところでなされるのだ。しかしこうかいても、多くの研究者は、それぞれの思想をつなげるかたちで研究をしているわけではない。思想は思想、学問は学問、というように切り分けている。あるいは思想なんかもたずに学問研究をしている者も多い。
時流の変遷にみずからをあわせながら生きていく、そういう人が多いのである。仕方がないことだ。
若い頃、清張の小説はたくさん読んだつもりでいたが、ここに記された「真贋の森」、「断碑」、「石の骨」、「カルネアデスの舟板」、いずれも読んだことはない。
「カルネアデスの舟板」は、歴史学者が、戦前戦中は国家主義的歴史学、戦後はマルクス主義史学へと転換し、豊かな生活を送る、というものらしい。学者の変節である。
学者には、変節する人が多い。学界で注目されて居続けたいという欲望があるのだろうか、学問内容だけではなく、その方法論についても変遷を重ねる、そのことによって注目され、その結果財産や名誉が転がり込む。
昨年、学生時代の同窓会を開くという連絡があった。その同窓会とは、なんらかの運動に関わった者たちが集まるものであった。しかし私は欠席した。学生時代、他の学生を煽っていた者は政府の審議会に入り、労働者にとってマイナスの政策を立案する者になったり、ある者はカネ儲けに勤しんでいたり、学生時代の思考とはまったく異なった立ち位置にある者がほとんどであったからだ。
学者の「変節」は、そんなに珍しいことではない。ある歴史学者は、マルクス主義的文献をもとに古代史を研究していたが、今では神話を史実としている。
「変節」する学者には、思想の核というものがないように思う。学問内容や、研究方法はその人の思想とつながらないところでなされるのだ。しかしこうかいても、多くの研究者は、それぞれの思想をつなげるかたちで研究をしているわけではない。思想は思想、学問は学問、というように切り分けている。あるいは思想なんかもたずに学問研究をしている者も多い。
時流の変遷にみずからをあわせながら生きていく、そういう人が多いのである。仕方がないことだ。