シリーズ日本近世史の一冊。歴史の研究はどんどん進み、こうした本を読まないと、研究の進展に追いつくことができない。私は近世史を研究しているわけではないが、近現代史は近世史の研究成果の上に研究されなければならないという観点から、こうした前近代に関する本も読む。ただし、専門書はもう読まない。新書のような簡便な、それでいて研究成果をきちんと反映しているようなものを買い、また読むのだ。
読んでいると、そうだったのか、と今まで疑問をもったままであったことが、わかるようになる。
まず指摘しておきたいことは、「近世領主の大きな特色は広域の水利土木事業の推進にあった」(6ページ)という記述である。近世において、洪水を防ぐとか、河川改修は領主の勤めであった。しかし現在の日本政府は、そうしたところにカネを使わないために、全国各地で水害が起きている。安倍政権は、近世の幕府や大名以下の政権であることを、まず記しておきたい。
私は亡くなられた藤木久志氏の本をいろいろ読んでいるが、中世戦国時代とはたいへんな時代であった。現在この日本列島に生きている日本人の先祖は、戦国時代を辛くも生き延びることができた先祖のおかげでこの世に生をうけているということだ。中世は、自力救済の世界。誰も守ってくれないから自らの権利は自らの力で守らなければならなかった。しかし、秀吉、家康と近世幕藩体制が成立し戦乱がなくなったことから、人々は生業に専心することができるようになった。中世から近世への時代変化は、したがって「進歩」ということになる。
近世になって戦乱なき社会になって、新田開発が進み、生産力が上昇し、人口も増えていく。17世紀初頭の人口は1200万人から、18世紀初めには3100万人となった。
現在は人口が減り始めていて、このままでは減る一方である。ということは、幕藩体制下の政治よりも現在の方が悪政が行われているということでもある。
話は変わって、私は今日も畑に行った。私は、農薬も化学肥料もつかわない。鶏糞と苦土石灰だけを金肥としてつかう。それ以外は、実家の垣根となっている槙の枝葉、草などを畑に入れて肥料としている。近世の農法である。近世は入会地・草場から草を取ってきて肥料とする。しかし人口が増えたりするとそこがはげ山になってしまう。肥料が不足し、富裕層は干鰯などの金肥を購入しさらに豊かになっていく。しかし貧困層は金肥を買えず、生産力をあげることができず、農閑余業に精を出すなど、格差が生まれてくる。近世後期は、貧富の差が拡大するが、こうした背景があったということである。
ほかにも貴重な記述がある。
なおこの著者、私が卒業した高校の先輩であるようだ。名前は昔から知ってはいたが、これは初めて知った。
読んでいると、そうだったのか、と今まで疑問をもったままであったことが、わかるようになる。
まず指摘しておきたいことは、「近世領主の大きな特色は広域の水利土木事業の推進にあった」(6ページ)という記述である。近世において、洪水を防ぐとか、河川改修は領主の勤めであった。しかし現在の日本政府は、そうしたところにカネを使わないために、全国各地で水害が起きている。安倍政権は、近世の幕府や大名以下の政権であることを、まず記しておきたい。
私は亡くなられた藤木久志氏の本をいろいろ読んでいるが、中世戦国時代とはたいへんな時代であった。現在この日本列島に生きている日本人の先祖は、戦国時代を辛くも生き延びることができた先祖のおかげでこの世に生をうけているということだ。中世は、自力救済の世界。誰も守ってくれないから自らの権利は自らの力で守らなければならなかった。しかし、秀吉、家康と近世幕藩体制が成立し戦乱がなくなったことから、人々は生業に専心することができるようになった。中世から近世への時代変化は、したがって「進歩」ということになる。
近世になって戦乱なき社会になって、新田開発が進み、生産力が上昇し、人口も増えていく。17世紀初頭の人口は1200万人から、18世紀初めには3100万人となった。
現在は人口が減り始めていて、このままでは減る一方である。ということは、幕藩体制下の政治よりも現在の方が悪政が行われているということでもある。
話は変わって、私は今日も畑に行った。私は、農薬も化学肥料もつかわない。鶏糞と苦土石灰だけを金肥としてつかう。それ以外は、実家の垣根となっている槙の枝葉、草などを畑に入れて肥料としている。近世の農法である。近世は入会地・草場から草を取ってきて肥料とする。しかし人口が増えたりするとそこがはげ山になってしまう。肥料が不足し、富裕層は干鰯などの金肥を購入しさらに豊かになっていく。しかし貧困層は金肥を買えず、生産力をあげることができず、農閑余業に精を出すなど、格差が生まれてくる。近世後期は、貧富の差が拡大するが、こうした背景があったということである。
ほかにも貴重な記述がある。
なおこの著者、私が卒業した高校の先輩であるようだ。名前は昔から知ってはいたが、これは初めて知った。
私は地方に住んでいるので、女性専用車両をみたことはない。上京しても、混雑する時間に電車に乗ることはほとんどない。運悪く混んでいる電車に巡り会ってしまったときには、痴漢に間違われないように両手をあげていることが多い。
そもそも私は人混みが嫌いで、学生時代(西武新宿線であった)も、急行や準急にも乗らず、いつも鈍行に乗っていた。「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」ということばもあったくらいだ。
さて最近テレビのワイドショーで、女性専用車両にたいして、攻撃的な番組がいくつかあったようだ。なぜ攻撃するのか、私にはわけがわからない。男どもが、痴漢をしなければこういう車両はもうけられなかった。ならば、女性専用車両の存在を攻撃する前に、男どもによる痴漢行為を攻撃するべきだ。
女性専用車両がなくてもいいような社会をつくることこそが大切なのである。
そもそも私は人混みが嫌いで、学生時代(西武新宿線であった)も、急行や準急にも乗らず、いつも鈍行に乗っていた。「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」ということばもあったくらいだ。
さて最近テレビのワイドショーで、女性専用車両にたいして、攻撃的な番組がいくつかあったようだ。なぜ攻撃するのか、私にはわけがわからない。男どもが、痴漢をしなければこういう車両はもうけられなかった。ならば、女性専用車両の存在を攻撃する前に、男どもによる痴漢行為を攻撃するべきだ。
女性専用車両がなくてもいいような社会をつくることこそが大切なのである。
松尾尊兌氏の『昨日の風景』に、歴史研究の方法論的な記述もある。それは史料と研究者自身の関わりをどう考えるべきか、ということである。
「さわやかなお人柄 家永三郎先生」には、松尾氏は家永先生の学問の特色として、「主体的価値意識を強く打ち出すことを憚らない」ことをあげている。私も家永先生からお葉書をいただいたことがあるし、また家永氏のご著書はたくさん読み込んでいる。まさにそうした特徴が、家永氏の研究である。家永先生もみずから「無限にちかい過去をなんらかの問題意識で整理しなければ歴史像を構成することは不可能であって、主体的立場なしの歴史学などあるはずがない」と書いているそうだ(「私の精神的軌跡」)(124ページ)。
また丸山真男氏も、松尾氏への書簡の中でこう記している(189ぺーじ)。
「実証主義の名の下に、歴史的事象にたいして無批判であることが学問的であるかのようにふるまう戦後派の歴史学者が少なくない中にあって、明確な価値判断を下すことを忌避しない学兄の叙述には感銘いたしました。」
家永さんも、丸山氏も、明確な、主体的な価値判断をすることの重要性を指摘している。私も同感である。最近は価値判断を避けているような(しかし何らかの価値判断をしないと歴史研究は成り立たない)研究が増えているように思う。
そうした傾向が、現在の日本の政治社会状況を作り出しているのではないかと思う。
「さわやかなお人柄 家永三郎先生」には、松尾氏は家永先生の学問の特色として、「主体的価値意識を強く打ち出すことを憚らない」ことをあげている。私も家永先生からお葉書をいただいたことがあるし、また家永氏のご著書はたくさん読み込んでいる。まさにそうした特徴が、家永氏の研究である。家永先生もみずから「無限にちかい過去をなんらかの問題意識で整理しなければ歴史像を構成することは不可能であって、主体的立場なしの歴史学などあるはずがない」と書いているそうだ(「私の精神的軌跡」)(124ページ)。
また丸山真男氏も、松尾氏への書簡の中でこう記している(189ぺーじ)。
「実証主義の名の下に、歴史的事象にたいして無批判であることが学問的であるかのようにふるまう戦後派の歴史学者が少なくない中にあって、明確な価値判断を下すことを忌避しない学兄の叙述には感銘いたしました。」
家永さんも、丸山氏も、明確な、主体的な価値判断をすることの重要性を指摘している。私も同感である。最近は価値判断を避けているような(しかし何らかの価値判断をしないと歴史研究は成り立たない)研究が増えているように思う。
そうした傾向が、現在の日本の政治社会状況を作り出しているのではないかと思う。
丸山真男の文章が利用されていた(177~8)。
民主主義を現実的に機能させるためには、何よりも何年に一度かの投票が民衆の政治的発言のほとんど唯一の場であるというような現状を根本的に改めて、もっと、民衆の日常生活のなかで、政治的社会的な問題が討議されるような場が与えられねばなりません。それにはまた、政党といった純政治団体だけが下からの意思や利益の伝達体となるのではなく、およそ民間の自主的な組織(Voluntary Organization)が活発に活動することによって、そうした民意のルートが多様に形成されることが何より大切なことです。(中略)といっても、一般国民が職場と別にそうした自主的組織を作ったり、それに参加して活動するということは、やはり現実問題としてはなかなか困難でしょう。そこで何といっても重要な意味を帯びるのが、職場における組合です。労働組合こそは現代社会における大衆の原始的解体に抵抗する最も重要な拠点でなければなりません。
この文は、丸山真男の『政治の世界』という冊子から引用されたものである。
現在は、労働組合は一方で会社の労働者支配管理を担う「御用組合」と、組織率が低いあまり力を発揮できない労働組合だけが残っているだけだ。その背景にあるのが、一方で「労戦統一」という右派労働組合主導による動き、そして国家権力による国鉄分割民営化(中曽根内閣)→総評解体→日本社会党衰退という戦略であった。労働組合は、その存在理由がほとんど消し去られている。
ではどうすればよいのか。
労働組合に代わる「民間の自主的な組織」をつくりだすことが課題となっている。「原始的解体」されている「大衆」の「解体」状況を克服すること、それなしに「民主主義を現実的に機能させる」ことはできない。
私たちは、今は亡き人々が、貴重な言辞を残している。それらをもう一度反芻することが必要なのであろう。
なお、これも松尾尊兌氏の『昨日の風景』に引用されているものである。
民主主義を現実的に機能させるためには、何よりも何年に一度かの投票が民衆の政治的発言のほとんど唯一の場であるというような現状を根本的に改めて、もっと、民衆の日常生活のなかで、政治的社会的な問題が討議されるような場が与えられねばなりません。それにはまた、政党といった純政治団体だけが下からの意思や利益の伝達体となるのではなく、およそ民間の自主的な組織(Voluntary Organization)が活発に活動することによって、そうした民意のルートが多様に形成されることが何より大切なことです。(中略)といっても、一般国民が職場と別にそうした自主的組織を作ったり、それに参加して活動するということは、やはり現実問題としてはなかなか困難でしょう。そこで何といっても重要な意味を帯びるのが、職場における組合です。労働組合こそは現代社会における大衆の原始的解体に抵抗する最も重要な拠点でなければなりません。
この文は、丸山真男の『政治の世界』という冊子から引用されたものである。
現在は、労働組合は一方で会社の労働者支配管理を担う「御用組合」と、組織率が低いあまり力を発揮できない労働組合だけが残っているだけだ。その背景にあるのが、一方で「労戦統一」という右派労働組合主導による動き、そして国家権力による国鉄分割民営化(中曽根内閣)→総評解体→日本社会党衰退という戦略であった。労働組合は、その存在理由がほとんど消し去られている。
ではどうすればよいのか。
労働組合に代わる「民間の自主的な組織」をつくりだすことが課題となっている。「原始的解体」されている「大衆」の「解体」状況を克服すること、それなしに「民主主義を現実的に機能させる」ことはできない。
私たちは、今は亡き人々が、貴重な言辞を残している。それらをもう一度反芻することが必要なのであろう。
なお、これも松尾尊兌氏の『昨日の風景』に引用されているものである。