浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

ことばをつなげる

2020-01-15 17:50:22 | 社会
 『座談会 昭和文学史』一(集英社)を読んでいる。文学は社会と密接な関係を持っていると私は考えていて、だからこそ、「○○○○とその時代」というかたちで、文学者とその作品を歴史の中で捉える作業をしているのである。

 さて、その参考としてこの本を読んでいるのだが、そのなかで今はなき加藤周一氏が、こう語っている(74~5)。

 日本語の書き言葉には、日常語とつながっていないところがある。書き言葉と話し言葉に距離がある。ヨーロッパ語は、そうじゃない。日常語から抽象化された哲学用語でさえも日常語とつながっていることがあります。だから、知識人の言葉が、労働者にも届きやすい。日本では、知識人が労働者に呼びかける言葉がない。

 日本の哲学や社会科学のことばは、近代日本になって、漢語の知識を背景に翻訳したもので、日常的なことばと関係なく、あたらしくつくりだされたものである。したがって、日常語とは最初からものすごい距離があり、それは現在も変わることはない。

 日常の言葉とそうした学術的なことばとをどう接近させていくかが、近代日本の課題であった。しかし、その後は欧米からの翻訳語も増えて、日常語と学術的なことばとの乖離はひろがるばかりだ。

 ところで現在の日本では、知性の劣化が指摘されている。首相や大臣の言動が端的にそれを示しているが、首相らの知性劣化が社会の中に蔓延してきているようだ。

 そういうなか、先日も指摘したが、『世界』2月号の特集名「フィクション化する政治」というネーミングはいただけない。「虚構化する政治」としても、どうもわかりにくい。わかりやすいことばを使うこと、それが今求められていることではないか。「嘘にまみれた政治」とか、「嘘つきが行う政治」、「真実が消される政治」とか・・・・

 私は、横文字をつかうことは慎重になっている。もちろん、研究会の機関紙などに書く場合はそれほど気にする必要はないが、荘でない場合は、気を遣っている。

 政治が日常と密接につながっているが故に、政治の言葉も日常語とつなげなければならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする