先に紹介した『なつかしい時間』に「記憶を育てる」という項目がある。
記憶は、言いかえれば、自分の心の中に、自分で書き込むという行為です。驚きを書き込む。悲しみを書き込む。喜びを書き込む。そうやって、自分でつくりあげるのが、記憶です。
また、長田の自著『記憶のつくり方』(朝日文庫)からの引用もある。
記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。
長い間、私も歴史という学問研究の末席にあったが、歴史を叙述するということは、史資料にもとづいて、過去を現代に「書き込む」作業であった。したがってそれは、過去のことではあるが、現代のことでもある。現代の視点から、過去を蘇らせる、過ぎ去ることのないようにピン止めする行為であると思う。
人間は生きてくる過程で、みずからにとって衝撃であったことを心の中に書き込んで生きていく。
そのひとつが、1972年の川口大三郎くん事件であった。樋田毅著『彼は早稲田で死んだ』に関して多くの書評などがあることを今日知った。私だけではなく、あの事件を心に書き込んだ人が多いことがわかった。
あの頃暴力を振るいまくっていた革マル派の学生たちはいまどうしているのだろう。鉄パイプを持って、学生に襲いかかっていたあの独特の眼をもった集団。
私の記憶に、彼らの蛮行はしっかりと書き込まれている。