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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

思考を引き出す長田弘の世界

2022-01-01 20:08:10 | 日記

 先に紹介した『なつかしい時間』に「記憶を育てる」という項目がある。

 記憶は、言いかえれば、自分の心の中に、自分で書き込むという行為です。驚きを書き込む。悲しみを書き込む。喜びを書き込む。そうやって、自分でつくりあげるのが、記憶です。

 また、長田の自著『記憶のつくり方』(朝日文庫)からの引用もある。

 記憶は、過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。

 長い間、私も歴史という学問研究の末席にあったが、歴史を叙述するということは、史資料にもとづいて、過去を現代に「書き込む」作業であった。したがってそれは、過去のことではあるが、現代のことでもある。現代の視点から、過去を蘇らせる、過ぎ去ることのないようにピン止めする行為であると思う。

 人間は生きてくる過程で、みずからにとって衝撃であったことを心の中に書き込んで生きていく。

 そのひとつが、1972年の川口大三郎くん事件であった。樋田毅著『彼は早稲田で死んだ』に関して多くの書評などがあることを今日知った。私だけではなく、あの事件を心に書き込んだ人が多いことがわかった。

 あの頃暴力を振るいまくっていた革マル派の学生たちはいまどうしているのだろう。鉄パイプを持って、学生に襲いかかっていたあの独特の眼をもった集団。

 私の記憶に、彼らの蛮行はしっかりと書き込まれている。

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長田弘の世界

2022-01-01 15:28:18 | 日記

 さざんかの垣根のあちらこちらに桃色の花が咲く。その一部に、みかん色の花が咲く。この時期に訪れるメジロの夫婦のために、毎年ミカンを半分に切りさざんかの枝に刺す。どこからか飛んできて、ミカンをついばみ去って行く。メジロは可愛い。万人に愛される鳥だ。

 先ほど生ゴミを畑に捨てにいった。いつものとおりカラス三羽が飛んできた。カラスは嫌われる。全身黒ずくめ。ときにゴミ袋をあさって住民に追い立てられる。今日も冷たい西風が吹きつけている。カラスは畑に置いてある水槽の脇に来て寒風を避けている。

 ルッキズムが批判される。それも当然だと思いつつ、メジロとカラスのことを思う。メジロもカラスも生きている。

 書庫から長田弘の『なつかしい時間』(岩波新書)をもってきた。2013年刊。ずっと前、『私の二十世紀書店』(中公新書)を読んで、長田弘のファンになった。それ以降、長田の弘の本は買うようにしている。

 古今東西の文献を渉猟し、みずからのものにして、それらを縦横無尽に駆使し、さらに思考を自由に飛翔させながら文を綴る。そこには豊かな人間性をもつ、静かな詩的空間がつくられる。

 長田弘の本を読むということは、その空間に入り込むということだ。

 『なつかしい時間』の最初に、ペルーの詩人セーサル・バジェッホの詩があった。以前読んだとき、私はその詩を赤鉛筆で囲んだ。

 たたかいが終わって、

 戦士が死んでいた、男がひとりやって来て

 言った。ー《いけない、死ぬのは!きみをこんなにも愛してるー》

 けれどもその屍体は ああ!死につづけた

 「たたかい」=戦争とは、殺し合いだ。人間が、「敵」と見做した人間を殺す。だれ(国家?!)が「敵」と認定したのかはわからないけれども、「敵」だから殺す。屍体が無数に転がる。人間は、いやあらゆる生物は死ぬと永遠に死につづけるのだ。

 沖縄のあちらこちらには、むかしの戦争で殺された人間の屍体がいまも残されている。その屍体が軍事基地建設に投入されようとしている。

 待て!その屍体は死につづけているのであって、死んでしまったわけではない。

 沖縄の島々に、ふたたび死につづける屍体を並べたいのか、自衛隊の基地が建設され、米軍兵士が出入りしている。

 死につづけている屍体の声を聞け!と、私は思う。

 

 

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