「人生は決して、あらかじめ定められた、すなわちちゃんとできあがった一冊の本ではない。各人が一字一字書いて行く白紙の本だ。生きて行くそのことがすなわち人生なのだ」と大杉栄は書いています(「社会的理想論」)。
齢を重ねてきた私には、その白紙部分が減ってきています。どれほどの白紙が残されているか、不安を持つこの頃です。
今まで社会科学や歴史関係の本をたくさん読んできましたが、人生の終わりを見据えたとき、文学を読むことを決意しました。私は夏目漱石、森鴎外、石川啄木、芥川龍之介、チェーホフ、ドストエフスキーの全集をもっています。ドストエフスキーは若い頃に読みましたが、その他はそのまま持っていただけでした。
しかしあるところから歴史講座を依頼され、石川啄木、芥川龍之介については、「・・・とその時代」として語りました。次は漱石を読みとおそうと思っています。その次にチェーホフを。
長田弘の『なつかしい時間』を読んでいますが、多く読書、本について書かれています。
なかに、こういう文がありました。
文学は人間を知る営みである。(45)
一度しかない人生、しかし文学を読むことで、いろいろな人生を体験することが出来ます。文学を読むことで、「人間を知る」ことができます。それだけではなく、豊かな感情をも育ててくれます。
ところが、文科省は、青年たちから文学を奪おうとしています。おそらく文科省の官僚たちは、文学も読まずにきたのだと思います。人間を知ることのない方々が教育政策に携わるという、たいへんおかしな国になっています。今までの教育政策を振り返るだけで、官僚たちは人間を知らないで政策をつくってきている、ということができます。
その彼らが、高校の国語の教育課程を変更しました。文学なんか読まないで、契約書とか取扱説明書をよむことができる人間をつくろうとしています。
日本人の劣化、知的にも、感性的にも、はたまた経済的にも、政治的にも・・・・あらゆるところで劣化が進んでいる日本人から、「人間を知る」ことができる文学をも奪おうとしています。
いよいよ日本は断末魔に向かってばく進しているようです。