浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

北原みのりさんの「新聞記者」評

2022-01-18 20:17:28 | メディア

Netflixの「新聞記者」、日本のテレビドラマとしてはよくできていると思った。

そして北原みのりさんの評を読んだ。なるほど、である。たしかに韓国のドラマは、女性がひとりの独立した人間として生きている。誰かの妻であっても、誰かの恋人であっても・・・・

この「新聞記者」では、描かれる女性は、妻として、家庭の主婦として生きている。

これからの表現活動は、ジェンダー視点なくして描かれるべきではないと思った。

北原さんの評価に教えられた。 

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「新聞記者」

2022-01-18 08:45:09 | 社会

 わが家はBSも、デジタル放送も見られない。見られない、ではなく、見る価値がないと思っているから、それらの電波をうける受信設備がない。新聞のテレビ欄をちらっと見るときもあるが、くだらない番組がどこの局でも並んでいる。よくもまあ、低劣なものばかり並べるものだとつくづくと思う。放送の低劣さが政治の低劣さをつくりだしているのではないかと思う。 

 さて、昨日・今日、Netflixで「新聞記者」を見た。全六回である。映画の「新聞記者」も見たが、Netflix版のほうがよいと思った。主演は、米倉涼子である。

 わが家は以前からNetflixを見られるようにしている。日本のテレビはつまらないが、韓国のドラマはとても面白い。韓国ドラマは日本のそれよりずっと質が高いと思う。主に家人が見ているが、私も時々見ている。

 Netflixで「新聞記者」の放映が始まったというので、昨日今日と二日間で見終わった。なかなかの迫力である。背景にあるのは、アベ政権下におきた数々の不祥事、森友問題、東京五輪、山口敬之の逮捕を免れた事件など、それらがフィクションのなかにちりばめられている。同時にコロナ禍におきた就職内定取消し問題や、タレントの政治批判に対する政治的な封じ込めの動き、官邸や内調の卑劣な行動、オリンピック招致のウソなど・・・

 まさに安倍政権下の日本の暗黒が描かれている。

 その暗黒のなか、官邸の不当な指示の下で苦しみながら、みずからの良心とせめぎ合う人間、権力の不当な圧力に抗する人間が描かれていた。

 こういうドラマは、地上波ではぜったいに放映されないだろう。それが日本のメディア状況だ。

 素晴らしい、感動的なドラマである。多くの人にみてもらいたい。

 なお、これ、外国でも評判が高いそうだ。日本の暗黒が、世界にも知られていくだろう。 

 その通り、私たちは暗黒政治の下に生きているのです!

 

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時流に乗る人

2022-01-18 08:45:09 | 社会
 学生時代、S君がいた。S君は研究者になった。父君も大学教授であった。大学卒業以降一度も会っていないが、かなり前、『法学セミナー』で彼の論文を読んだ。その内容は、新自由主義的な色彩の濃いものであった。S君は学生時代、学生運動をしていたので、その内容に驚いたことがある。S君は変わった?いや本質的には変わっていない。彼はおそらくその時々の「時流に乗りながら生きて行く」ということにおいては変わっていない、のではないか。
 
 樋田毅の『彼は早稲田で死んだ』のなかに、革マル派の活動家、それもかなりの武闘派だったと言われ、その後は明治学院大学の教授に収まり、スローライフなどを提唱している大岩との対談が載っている。
 
 川口大三郎君をテロリンチで殺害した仲間の一人であった大岩が、その頃のことをどう思っているのかを、樋田は問う。しかし、大岩の人生には、そうした蛮行の「経験」が刻印されていないことに気づく。大岩は学生時代にみずからがふるった暴力(当然、暴力を振るわれた人がいる)、革マル派による川口君虐殺などについて、おそらくみずからを振り返ることなく生きてきたようなのだ。 
 
 樋田は、学生時代にみずからが経験したことをみずからに刻印し、それを反芻し考えながらその後の人生を生きてきた。「時流に流されず」、「時流に抗って」、自分自身をしっかと持ち続けて生きてきた樋田と、大岩とは本質的に異なった人間なのだ。
 
 先ほど私は、「時流に乗って生きていく」ということを書いた。ふつうの人々は、「時流に流されて生きていく」のだが、なかには「時流に乗って」それを利用しながら生きて行く人もいるのだ。その「時流」が、時の流れのなかで正反対のものになっても、その人間にとっては問題にならない。「時流に乗る」ことが、彼の生の本質だからだ。
 
 大岩は、時流にうまく乗って生きていくという生き方をしてきたのではないかと思った。
 
 かれは、みずからの生の軌跡を自分自身の生に刻印していかない人たちの一人なのだ。樋田とは異なる人間なのだ。樋田は、自分自身がこうだから、大岩も学生時代のことをみずからに刻印して生きてきたのだろうと思い込んだ。しかし大岩はそうではなかった。
 
 他人も自分と同じであると思ってはいけないのである。
 
 樋田は、大岩と対談し、あんなにヒドイ暴力をふるったのだから、暴力集団の強力な一員だったのだから、それが心の傷として残っているはずだと推測したのだろう。しかしなかった(私はそのように読み取った)。
 
 私は、たくさんの「時流に流されている」人々、「時流に乗ってその時流を「有効に」利用して生きている」人々を見てきた。もちろん、時流に流されず、「時流に抗する」人もいるが、そういう人は、実は少ないのである。
 
 最近、かつて書いたブログ、「「哀しい」転向」へのアクセスが多い。ここでとりあげた弁護士は、時流に乗った人ではない。「時流に抗する」人であった。しかし「時流に抗する」なかで、大きな挫折を味わった。そして今までは労働者の権利擁護に奔走していた彼が、次には労働者の権利擁護に敵対する立場の弁護士となった。
 戦前、日本共産党の活動家のなかから、「転向」して労働運動などの社会運動をつぶす活動を専門に行うようになった鍋山貞親らがいる。
 
 その弁護士は、しかし鍋山らとは違うと思う。おそらく彼は、心の中で泣き叫びながら、企業のための弁護活動をしているのではないか。彼も、みずからの生を刻印して生きてきた人間だと思うからだ。しかし、彼は中途で刻印するのをやめた。だが、過去に刻印してきた人格は、おそらく消えてはいない。だからきっと苦しい生き方をしているのではないか。その点で、大岩とは異なる。大岩は過去の自分に苦しんだことはないのではないか。
 
 
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