残念ながら、英語が世界共通語の様相を呈している。個人的には、まったく面白くはない。世界共通語としてのエスペラント語の普及が行われれば良かったのだが、しかしその状況はない。
このことを前提に、本書の内容を紹介したい。
ここに『アジアをつなぐ英語』(アルク)という本がある。その表紙に、この本の趣旨が書かれている。
「英語を一生懸命勉強しているのに、話せるようにならない」。こう思う人は多いことだろう。しかし、臆することはない。流暢に英語を話せなくても、「正しい」英語である必要もない。世界の人びとを相手に自分の思うこと、感じること、すなわち自分のアイデンティティを表現すればいいのだ。」
私がしばしば言うように、語学は度胸だ、ということである。会話は流れの中で話されるのだから、時制や文法などにとらわれることなく、話したいことを、何とか伝えようとして話していけばよいのだ、ということである。疑問文は、語尾を上げればよいのだ。もちろん正確な英語が話せた方が良いに決まっているが、徐々にその腕を磨いていけばよいのである。
なぜ日本の若者が英語を話すに躊躇してしまうのか。その原因の一つにALTの存在があると思う。高校には一人、小中学校には巡回のALTが置かれている。かれらの給与は全員30万円(月)である。夫婦で日本にこれば、月60万円の収入を得られる。これはなかなかの収入だ(日本のALT制度は、それぞれの国に対する日本政府による失業対策事業でもある)。
なぜかそのALT、アメリカやオーストラリア、イギリスなど、英語を母国語とする人びとである。いわゆるネイティヴである。確かに本格的に英語を勉強したい者にとってはよいことだろう。ところが日本の社会生活において、英語は全く必要ない。英語を全く必要としない生活をしているとき、英語が苦手な子どもがたくさんでてくるのはやむを得ないだろう。
ALTは母国語あるからぺらぺらと話す。それについていけない子どもも多い。
だから私は、世界中から、英語を母国語としていない地域で英語を勉強した人たちをALTとして迎え入れるべきだと主張している。英語は、コミュニケーションの手段であることを、身をもって教えてもらうのだ。
この本の著者・本名信行氏も「アジア人同士だとお互いにノンネイティヴ・スピーカーなので、、気軽に英語を話せるようになる。ネイティヴ・スピーカーの規範をあまり意識しないので、緊張感が薄れ、自由に話せるのである。日本の英語教育では、この事実をもっと重要視する必要がある。」(28ページ)と記す。
この本では、アジア各地の英語がどのように変容しているかの実例を示している。たとえば、シンガポールでは、動詞と名詞の区別をしない(たとえば、where do you market?=どこで買い物するの?)、名詞と名詞の語では両方にアクセントを置く(shopping bag。英語ではshoppingにアクセントを置く)など。
このようにアジア諸地域では、英語をコミュニケーションの手段として、土着化して使用している。
しかし日本では、先進国だと偉そうにしていながら、植民地的根性で英語を学ばせている。まず名前。英語で自らの名前を表記するとき、Naoto Kanとする。中学校でこのように表記せよと教えられるからだ。だが中国では、姓・名の順である。私も姓名の順で書いている。何も、アングロサクソンの文化にすべて従う必要はないのだ。
本名氏は、こう書いている。
「日本人は一方では英語は国際言語というが、他方では英語と英米文化は一体と考えがちである。また、国際とは依然として、英米との関係と解釈しがちである。日本の英語教育はこういった呪縛を断ち切らなければならない。日本の英語教育では今日でも、英米の文化現象を教材にしすぎる。当然のことながら、世界の人びと英語で会話するときの話題は、英米のことに限られているわけではない。」
日本の英語教科書は英米のことが多く、教材としての英会話も日本人と英米人との会話になっている(英会話で出てくる人物の名を思い浮かべれば、ナンシーとかベン、ビル・・・ばかりだ)。全然国際的ではない。こういうこばかりやるから、植民地根性をもった英米崇拝の人間が誕生するのだ。
本名氏は続けて、こう記している。
「タイ人ならタイのこと、インドネシア人ならインドネシアのこと、日本人なら日本のことを英語で話せないならば、国際英語コミュニケーションは何の役にも立たない。英語を自己表現のための国際言語と考えるならば、早くこの偏向を克服しなければならない。そして、日本のことをもっと英語で読んで聞き、さらに書いて話す訓練をする必要がある。」(123ページ)
残念なことに、英語が好きだという者は、英語を目的としてのみ学ぶために、みずからの思想、政治や社会に対する自己の考えを持たず、ましてや日本文化についての理解などほとんど持ち合わせていない。
英語は、手段である。世界各地から情報をあつめ、英米人だけではなく、世界各地の人びとと語り合うための手段なのである。英語を学ぶ者は、英語学者になるわけではない。
英語を、自分なりに、使いこなせるように、学んでいこう。
このことを前提に、本書の内容を紹介したい。
ここに『アジアをつなぐ英語』(アルク)という本がある。その表紙に、この本の趣旨が書かれている。
「英語を一生懸命勉強しているのに、話せるようにならない」。こう思う人は多いことだろう。しかし、臆することはない。流暢に英語を話せなくても、「正しい」英語である必要もない。世界の人びとを相手に自分の思うこと、感じること、すなわち自分のアイデンティティを表現すればいいのだ。」
私がしばしば言うように、語学は度胸だ、ということである。会話は流れの中で話されるのだから、時制や文法などにとらわれることなく、話したいことを、何とか伝えようとして話していけばよいのだ、ということである。疑問文は、語尾を上げればよいのだ。もちろん正確な英語が話せた方が良いに決まっているが、徐々にその腕を磨いていけばよいのである。
なぜ日本の若者が英語を話すに躊躇してしまうのか。その原因の一つにALTの存在があると思う。高校には一人、小中学校には巡回のALTが置かれている。かれらの給与は全員30万円(月)である。夫婦で日本にこれば、月60万円の収入を得られる。これはなかなかの収入だ(日本のALT制度は、それぞれの国に対する日本政府による失業対策事業でもある)。
なぜかそのALT、アメリカやオーストラリア、イギリスなど、英語を母国語とする人びとである。いわゆるネイティヴである。確かに本格的に英語を勉強したい者にとってはよいことだろう。ところが日本の社会生活において、英語は全く必要ない。英語を全く必要としない生活をしているとき、英語が苦手な子どもがたくさんでてくるのはやむを得ないだろう。
ALTは母国語あるからぺらぺらと話す。それについていけない子どもも多い。
だから私は、世界中から、英語を母国語としていない地域で英語を勉強した人たちをALTとして迎え入れるべきだと主張している。英語は、コミュニケーションの手段であることを、身をもって教えてもらうのだ。
この本の著者・本名信行氏も「アジア人同士だとお互いにノンネイティヴ・スピーカーなので、、気軽に英語を話せるようになる。ネイティヴ・スピーカーの規範をあまり意識しないので、緊張感が薄れ、自由に話せるのである。日本の英語教育では、この事実をもっと重要視する必要がある。」(28ページ)と記す。
この本では、アジア各地の英語がどのように変容しているかの実例を示している。たとえば、シンガポールでは、動詞と名詞の区別をしない(たとえば、where do you market?=どこで買い物するの?)、名詞と名詞の語では両方にアクセントを置く(shopping bag。英語ではshoppingにアクセントを置く)など。
このようにアジア諸地域では、英語をコミュニケーションの手段として、土着化して使用している。
しかし日本では、先進国だと偉そうにしていながら、植民地的根性で英語を学ばせている。まず名前。英語で自らの名前を表記するとき、Naoto Kanとする。中学校でこのように表記せよと教えられるからだ。だが中国では、姓・名の順である。私も姓名の順で書いている。何も、アングロサクソンの文化にすべて従う必要はないのだ。
本名氏は、こう書いている。
「日本人は一方では英語は国際言語というが、他方では英語と英米文化は一体と考えがちである。また、国際とは依然として、英米との関係と解釈しがちである。日本の英語教育はこういった呪縛を断ち切らなければならない。日本の英語教育では今日でも、英米の文化現象を教材にしすぎる。当然のことながら、世界の人びと英語で会話するときの話題は、英米のことに限られているわけではない。」
日本の英語教科書は英米のことが多く、教材としての英会話も日本人と英米人との会話になっている(英会話で出てくる人物の名を思い浮かべれば、ナンシーとかベン、ビル・・・ばかりだ)。全然国際的ではない。こういうこばかりやるから、植民地根性をもった英米崇拝の人間が誕生するのだ。
本名氏は続けて、こう記している。
「タイ人ならタイのこと、インドネシア人ならインドネシアのこと、日本人なら日本のことを英語で話せないならば、国際英語コミュニケーションは何の役にも立たない。英語を自己表現のための国際言語と考えるならば、早くこの偏向を克服しなければならない。そして、日本のことをもっと英語で読んで聞き、さらに書いて話す訓練をする必要がある。」(123ページ)
残念なことに、英語が好きだという者は、英語を目的としてのみ学ぶために、みずからの思想、政治や社会に対する自己の考えを持たず、ましてや日本文化についての理解などほとんど持ち合わせていない。
英語は、手段である。世界各地から情報をあつめ、英米人だけではなく、世界各地の人びとと語り合うための手段なのである。英語を学ぶ者は、英語学者になるわけではない。
英語を、自分なりに、使いこなせるように、学んでいこう。