いつか読もうと思って傍らに置いておいた本である。寝付きの悪い私は、横になって本を読み、眠くなるのを待つというのが日課になっている。
この本が目についたので横になって読みはじめたのだが、これが面白く、またとても知的な内容であることがわかった。
昨日読みはじめて今日上巻を読み終えた。下巻もまた読まなければならない。
クロポトキンは、アナーキストである。しかしその出自は、ロシアの貴族である。それも公爵家であるから、かなり地位も高く、クロポトキンは上級貴族の子弟しか入れない「近習学校」の学生となり、皇帝の周辺に侍る一人であった。広大な土地と農奴を所有し、経済的に裕福で、クロポトキンは知的な環境のなかで育った。クロポトキンもその兄も、賢く、探究心も旺盛で、また反骨精神も持っていた。知的に成長していく過程が具体的に記されてる。
どのようにクロポトキンが「近習学校」で学習していったのか。多くは学問的にレベルの高い先生が、それぞれの学科の専門性に即した効果的な学習法を提示している。そこには、教育に従事する人は教える内容につき高い学識をもつことが必要であると示唆されている。
クロポトキンは書いている。
あらゆる学問研究の魅力というものは、それがたえず私たちの目のまえに新しい、まだ理解されていない未知の地平線をくりひろげてみせ、はじめて見たときにはぼんやりとした輪郭しかわからなかったもののなかへ深くつきすすんでいくように誘いかけるところにあるのではないだろうか?(105頁)
学校のなかで、それぞれの先生はみなその専門とする科目をうけもっているが、これらの科目と科目の間にはなんの脈絡もない。ひとり文学の先生だけは、だいたいは教授要領に従いはするが、それを自分の好きなように扱っていく自由をもっており、個々独立の歴史人文科学を結びつけたり、もっと広い哲学的な思想でそれを統一したりして、青年たちの理性と感情の中により高い理想と情熱を目ざますことができるのである。ロシアでは、この欠くことのできない仕事は自然にロシア文学の先生の手にゆだねられることになった。ロシア文学の先生がロシア語の発達、古代叙事詩の内容、民謡や音楽、さらに近代小説、ロシアの科学・政治・哲学文献、ロシア文学のなかに反映しているさまざまな美学・政治・哲学思潮などを語ろうとするときには、どうしてもばらばらに教えられている各専門科目の枠を越えた人間精神の発展について一般的な概括を行わないわけにはいかなくなるのである。(107頁)
日本の学校には、そういうものがない。できるだけそういうものを消し去ろうとしているのが文科省である。残念ながら、「青年たちの理性と感情の中により高い理想と情熱を目ざます」ことを阻止したい、それが文科省の教育行政なのである。
彼は「近習学校」をおえた後、シベリアに行く。そこで行政に携わるのだが、そこで学んだことは、
行政機構という手段によっては、民衆のために役にたつようなことはなにひとつとして絶対にできなということをまもなく悟った。(252頁)
であった。アナーキストとなる要素は、ここで育てられたようだ。
ではどうするか。
「集中したたくさんの意志のきびしい努力」、「共通の理解にもとづく一種の共同体的な方法でその仕事をおしすすめなければならない」。「命令と規律」ではうまくいかないのである。(254頁)
私は赤鉛筆を持って、同感したところや、重要だと思うところに線を引いていくのだが、本書は赤線がたくさんであった。
本書を読んでいて、ゲルツェンという人物を知った。その人の本も注文した。
ロシアという国家は好きではないが、しかしそこに住む人々、また文学者・詩人や音楽家のことを思うと、素晴らしい「くに」(country)だと思う。
長い間農奴制に苦しんだロシアの農民たちは、「権力には簡単に屈するが、それを崇拝はしない」(128頁)。日本の庶民はどうなのだろうか。